キリスト新聞 2010年4月24日号 掲載記事

このテキストは、[ キリスト新聞 2010年4月24日号 ](キリスト新聞社発行)の[ wide kirishin ]コーナーに掲載された筆者の寄稿を、同社の許可を得て転載しています。(傍点は太字に変更しています)


 90年冬、葬儀情報雑誌「SOGI」(表現文化社)が創刊された。当時の日本は、まだまだ日常的に死や葬儀について考える風土は未発達で、業界情報の流通などほとんどと言っていいほどない時代であり、非常に画期的な出来事であった(らしい。私はまだ小学生だったが)。しかしそれがたった20年前とは思えないほど、今や雑誌にもテレビにも「葬儀・葬式」の文字があふれている。変化の背景としては、戦後六十余年が経過していわゆる団塊の世代が高齢に差し掛かり、両親の葬儀の経験などを機に自身の葬儀について考えるようになってきたことや、葬儀がますます地域共同体の営みから葬儀社を介する個人の営みへと変化していく中で、自身で選択し責任を負う必要が増してきたことなどが挙げられる。
 現在、葬儀に関する話題の中でも特に注目されている事柄はといえば、@葬儀にかかる費用、A慣習からの脱却と「自分らしさ」の追求、Bグリーフケア(サポート)などであろう。@は終末期医療・介護にかかる費用負担の増大や世界的不況、葬儀業界の過去の体質に対する不満などを背景に持ち、Aは地域共同体の弱体化や情報流通の加速によって葬送が非連続的・選択的になり、過去に継承されてきた文化風習に意義を感じなかったり、「与えられる葬儀」から「作り上げる葬儀」を求める人が増えたことなどが背景にある。関心の高まっている散骨なども、@ないしA、あるいはその両方が理由となる。Bは遺された近親者の悲嘆(グリーフ)に対するケアや助力のことであるが、一般的な事情だけでなく、特に各地で起こる大型災害や事件・事故などに遭遇した遺族の心のケアの必要性から、研究や情報公開が進められている。
 このような現状の中で今、葬儀の現場において最も重要なことは何かと問われれば、私は「葬送共同体の中で持たれる、日常的なインフォームド・コンセント」ではないかと考えている。葬送共同体とは、ある死者が生前に関わっていた複数の共同体にまたがる、その死者の葬送に関わる人々全体のことを言う。私たちのキリスト教の葬儀では、@信仰共同体(教会など)、A社会共同体(友人や同僚など)、B遺族共同体(家族や親族など)、そして、C専門の支援者たち(葬儀業及び関連事業者、終末期に関わる医師や介護士、グリーフワークサポーターなど)の総体である。インフォームド・コンセントとは、医療を例に挙げると、患者が医師から病状・治療方法の選択肢・薬剤の効能と副作用などについて十分な説明を受け、患者自身が理解し(インフォーム)、方針に合意して(コンセント)、治療を受ける、あるいは受けないことである。
 葬儀の重要性は教会・社会ともに認めるところであるのに、その葬送共同体における情報交換や対話はいまだ十分とは言えない状況にある。葬儀業界も近年は情報発信を推し進める傾向にあるとはいっても、まだ若い世代では「比較的」と注釈を付けなければならないし、教会や教職も日常的にどれだけ葬儀業者と面接し対話の機会を持っているかといえばそう多くはない。その結果、葬儀について考える時間は死亡から数日間に集中し、共同体の疲労とストレスが高まるのである。また、合意と言うからには一方的な提示と受諾ではない。例えば日本では夫婦の片方だけがクリスチャンということも多く、葬儀において宗教は選択されるという事実がある。そのため、本人がクリスチャンだからキリスト教で葬儀を、と望んでも、遺族の同意が得られないこともある。この問題を解消するためには、信仰者自身が中心となって、日常的に教会と家族の間の対話を取り持ったり、エンディングノート(自身の終末期の過ごし方や葬送に対する希望などを書き示すノート)などを活用して自分の意志を家族に伝えていく工夫も重要である。
 インフォームすべき内容も複雑に変化し、また拡大している。これまでは葬式を行ったり墓を持つことなどはごく当たり前のことであったが、それらのことすらもはや確たるコンセンサスとは言えない時代になった。葬りと弔いのすべての営みの中で、それぞれがどういう意味や理由をもってなされるのか、またそれらにどのような選択肢があるのか、私たちはキリスト教の側からも社会習俗の側からも改めて考え直さなければならない時期にきている。
 葬儀がキリスト教の側から語られるとき、その葬送執行の主体は教会(信仰共同体)であると言われることは自然なことである。しかし、葬送において教会と社会が主従ではなくひとつの共同体として共に死者に相対することで、互いに合意のある葬送を生み出し、キリスト教が本当の意味で日本社会に受け入れられるようになるのではないか。葬儀と民俗はまったく切り分けては考えられない。キリスト教伝来から四百年以上経った今でも、課題は変わらず私たちの目の前にあり続ける。
 また現在の日本において葬儀業者を介さずに葬儀実務を行うことはかなり難しいと言わざるを得ない。そのため、教会も社会も葬儀業者との対話を十分に深め、連携して葬送を行っていくことが必要であろう。つまり、教会はキリスト教葬儀の充実のために葬儀業者をもっと有効に活用すべきであろうし、葬儀業者も単なる事業者と消費者という線引きを越えて、自らも積極的に各々の葬送共同体におけるより良い葬送を模索し、共に作り上げていかなければならないのである。
 主は山上の説教で、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5・4)と語られた。この言葉が実現するためには、共同体の一員を喪って悲しむ人々が共に寄り添い合い、互いに理解し合い、葬りと弔いに向けて想いを重ね合わせていくことが重要である。
 私たちの葬送は、私たちが独りではないからこそ大切なのである。


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