生と死の、その隙間の果て


▽ 悲しい数学

 先日インターネット上に「インターネットフリー百科事典ウィキペディアで最も閲覧されている記事は」という話題がありました。最上位は『0.999...』という記事だとのこと。
 この記事は「0.999...という実数は数学上1に等しいと一般的には言えるわけだが、捉え方にもよるところで未だ議論も尽きない」といったような主旨で、等しいとする証明や反証を紹介しつつ「0.999...とはどういう存在なのか」ということについて重厚に述べられています。…重厚に、というのは学のない私にはついていけないという意味です。
 思い返せば中学時代にもこれが理解できず、よく学問のできる友人に延々と説明させた記憶があります。結局今この記事を読んでみても難しいところはさっぱりわかりませんが、「1/3×3=0.333...×3」との証明に「なるほど」と思う程度には良くも悪くも大人になったようです。

 それよりも興味を引かれたのはこの記事の中で述べられている「教育現場での懐疑」というブロックでした。教育の現場に於いて多くの生徒がなぜ「1=0.999...」に疑いを持つのか、という内容です。
 なぜ興味を引かれたかというと、ここに描かれる生徒たちの葛藤がまるで人の生と死の差違を模索する葛藤のように私の目には映ったからです。

 数学を学ぶ生徒の多くが0.999... と 1 とが等しいことを理解できない。極限の概念や無限小の性質が日常の感覚と大きく異なっていることがその理由とされる。 そうなる共通の要因には次のようなものがある。

・「一つの数はただ一通りの小数で表すことができるはずだ」と思い込んでいる場合が多い。明らかに違う2つの小数が同じ数を表すことがわかると、それが逆説であるように見える。

・多いけれども有限の個数の "9" の列(おそらく可変であり特定できない長さ)として解釈する生徒もいる。たとえ生徒が "9" の無限個の列であることを受け入れたとしても、まだ最後の "9" が「無限の彼方に」あると期待しているのかもしれない。

・0.999... を 1 よりもごく僅かだけ小さい、固定された値であるとみなす生徒もいる。

 子どもたちに「おじいちゃんは死んだんだよ」と言う大人。それは1と0.999...が等しいと言うかの如く論理的で、受け入れなければ先に進めない事実なのかもしれません。
 しかしその概念は日常の感覚と大きく異なっている。それゆえ割り切れない、大人たちの勝手な理屈だと頑なに反発する子どもたち。受け入れたかのように見えて、心の底にわだかまりを棄てきれない子どもたち。
 『たとえ生徒が "9" の無限個の列であることを受け入れたとしても、まだ最後の "9" が「無限の彼方に」あると期待しているのかもしれない。』という言葉に、私は「人の肉体の死を受け入れても、まだどこかに霊が生きていると期待している」遺された人々を想起して、少し悲しくなったのです。

 基本的な証明の中で 0.333... = 1/3 の両辺を3倍する方法は、0.999... = 1 であることを受け入れない生徒に有無を言わせないための、明らかに成功する戦略であるかのように見える。しかしながら、第1の等式を信じることと、第2の等式を信じないことの矛盾に直面すると、今度は第1の等式を疑い始める生徒もいるし、または単に不満を抱くだけの生徒もいる。これより進んだ方法で簡単に分かるものもまたない。

 子どもたちに死を理解させるには、葬儀に参加させたり死体に触れさせるなど体験させることが一番だという意見があります。私も少なからずその通りだと思っていましたが、『基本的な証明の中で 0.333... = 1/3 の両辺を3倍する方法は、0.999... = 1 であることを受け入れない生徒に有無を言わせないための、明らかに成功する戦略であるかのように見える』との言葉にはハッとさせられました。そしてさらに『これより進んだ方法で簡単に分かるものもまたない』という言葉にまた、やるせなさを憶えたのです。
 妥当と思われる方法も絶対ではない。事実を突きつけても不満を抱くだけの子どもたちもいるでしょう。改めて注意しなければならないと思い直しました。

 このような説明の多くはデイヴィッド・トール 教授により発見された。
「生徒は 0.999... を、決まった値ではなく 1 に限りなく近づく数の列として理解し続けようとする。その原因は『先生は小数点以下の桁数がいくつあるかをはっきりと教えていなかった』という指導法の欠陥または『0.999... は 1 より小さい数の中で、存在しうる、1 に最も近い小数である』という認識である。」

 子どもたちはその故人を、死者ではなく限りなく「おじいちゃん」に近い存在として理解し続けようとする。その原因は「大人たちは人が死んだらどうなるのか、どこへ行くのかはっきりと教えていなかった」ことや「霊はおじいちゃんのいないこの世界で、存在しうる、その生者の人格に最も近い存在である」という認識である。
 子どもたちを軽んじているのではありません。良くも悪くも大人になった、というのはそういうことなのです。ただひたすら、羨ましいのかもしれません。

 エド・デュビンスキーとその共同研究者は、 0.999... を「1 から無限に小さい距離だけ離れている数を表す有限で不確定の文字列」であると思う生徒は「無限小数の構成過程の完全な概念がまだ形成されていない」と述べた。 たとえ 0.999... の構成過程の完全な概念を身につけた生徒であっても、まだその過程を(既に持っている "1" の概念と同様の)一つの「対象」としてとらえ直すことができずに、0.999... という一つの過程と 1 という数の存在を矛盾するものととらえるかもしれない。デュビンスキーらはまた、「一つの対象としてとらえ直す」というこの精神的能力が、1/3 それ自体を数と見なしたり、自然数の集合それ自身を一つの対象として取り扱ったりすることと関係していると考える。

 死は過程か事実か。人は生まれて以降、常に死にゆくのか。あるいは生から死へのその瞬間に、すべて取り去られるのか。
 死者を死者として端的に受け入れられるのか。あるいは死者は生者の延長なのか。生者と死者との間は『1から無限に小さい距離だけ離れている』と、心は叫ぶかもしれません。

 無限とゼロは似たようなもの、それはまるで仏陀の「空」の教えのようです。
 心の底から本当の意味で「死」を理解できずに戸惑いの中にいるのは、きっと他ならぬ私自身なのでしょう。無限の果てに終があり、約束された平安があることを祈り求めながら。

この色の文章はフリー百科事典ウィキペディア 記事「0.999...」より抜粋 2010/08/08時点 引用文中も省略、順序の前後あり


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