遊びと葬送


 オランダの歴史家であった故ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)は、その代表的著書『ホモ・ルーデンス』(原1938)において、「人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたのだ(12)」(高橋英夫訳,中公文庫,1973,以下同)と述べ、「遊びは文化よりも古い(15)」という言葉によってこの論文を書き出している。

 ホイジンガがここで言う「遊び」とは、我々が普通思う「遊戯」や「娯楽」など人間文化の中で形を与えられた遊びや競技のことではない。彼が問題にしたのは、「遊ぶということが、他のさまざまの文化現象のあいだでどういう位置を占めるかということではなく、文化そのものはどこまで遊びの性格を持っているか(12)」であった。それゆえ彼は、遊びは根本的な性質としてどのような論理的解釈も受けつけない「面白さ」というものを持っているものだとし、「われわれが取り上げようとする遊びは、誰にでも簡単に認められる、無条件に根源的な生の範疇の一つとしての遊びである……この遊びは一つの全体性と呼ぶべきものである(20)」とその研究の趣旨を述べている。本書のタイトルが「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」とされているのは、この点において「ホモ・サピエンス(理性の人)」との対比によるのである。

 このことからホイジンガが注意深く指摘しているのは、「遊び」が「文化」に変化するのではないという点である。「文化は遊びの形式の中に成立したこと、文化は原初から遊ばれるものであったこと(110)」が彼の考察にとって重要な点であって、「遊びの中で、共同体は生活と世界についての彼らの解釈を表現した……文化とは、ただわれわれの歴史的判断が、この与えられたものに対して名づけた名称でしかないのである(110-111)」という解釈において、冒頭のように「遊びは文化よりも古い」と述べているのである。遊びは文化の前身や未完成体ではなく、あらゆる人間文化を形成する「本質的なもの」だと位置づけられ、あらゆる文化には遊びの性質が内在している、というのである。

 ホイジンガは「遊び」を次のように定義する。

遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と喜びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは、「別のもの」という意識に裏づけられている(73)

 この定義によると、遊びの形式的特徴は大きく3つに分けられる。

T.自由で自発的な行為(活動)であること

 ホイジンガが第一に重視している特徴は自発性である。遊びとは一つの自由な行動であり、「命令されてする遊び、そんなものはもう遊びではない。せいぜい、押しつけられた遊びの写しでしかありえない(29)」という。ただしここでいう自発性とは、「遊び」を「遊ぼう」と理性的に認識して遊びに向かうということを必ずしも指さない。彼は「子供や動物が遊ぶのは、そこに楽しさがあるからで、まさにその点にこそ彼らの自由があるのだ(30)」と述べるように、意識しようとしまいとに関わらず、その遊びによって「面白さ」や「満足」を得ることがその遊びの動機となるという、生物の衝動的な精神の自由を指して遊びの自発性というのである。そして「この自由の性格によって、遊びは自然の過程がたどる道筋から区別される(29)」と続ける。遊びは呼吸や食事、外敵からの防衛などそれ自体が生物の「必要に迫られた行為」でなはく、「自然の過程に付け加えられるもの(29)」であり、「それはいつでも延期できるし、まったく中止してしまおうと何ら差し支えない(30)」ものであるとはっきりと区別する。それは「成人して生活に責任を負っている大人にとっては、遊びは、しなくてもかまわない一つの機能である。遊びは余計なものである。ただ、遊びによって満足、楽しみが得られるというかぎりにおいて、遊びへの欲求が切実になる、というだけの話である(30)」という言葉により詳しく表れている。

U.それだけで独立している行為であり、日常生活における利害を直接の目的にしていないこと

 第二の特徴は、遊びのそれ自体の独立性、日常生活における利害との乖離性である。このことは第一の特徴である遊びが「自由」であることと直接に関係している。遊びそれ自体は日常生活とは別のあるものとして存在し、「必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。いや、それはこの欲望の過程を一時的に停止させる(32)」のである。
 このことについて例えば、賭け事の賞金が結果的に日常生活の利益になるということがある。しかしホイジンガが現そうとしているのは遊びの第一義的な特徴であって、「遊びが仕えている目的そのものが、直接の物質的利害の、あるいは生活の必要の、個人的充足の外におかれている(33)」というように、賭け事の「目的」それ自体は「勝つこと」であって、賞金は付随的な利益でしかなく、またその賭け事はその賞金自体の必要のために行われるものではない。さらに単純な遊戯にしても、「幼い子供でももう、遊びというものは「ホントのことをするふりをしてするもの」だと感じているのだし、すべては「ただ楽しみのためにすること」なのだと知ってもいる(31)」のである。
 そのため、遊びが突き詰めればいかに真面目に行われ、遊ぶ者自身を完全に虜にすることがあるとしても、また規則的に繰り返される遊びがその個人の生活機能や社会の文化機能として不可欠になることがあるとしても、それはあくまでもそこで「はじめて必然、課題、義務などの諸概念が、結果として副次的に遊びと関係をもつ(30)」のであって、そのことをして遊びの第一義的特徴である独立性が失われるわけではない、というのである。

V.日常生活から時間的・場所的に区別され、また独自の絶対的な秩序を持っていること

 第三の、そしてホイジンガが「最も重要な形式的特徴」であると述べているのが、遊びの完結性と限定性である。ここれさらに時間、場所、秩序という3つの主要なもので構成される。

 まず遊びはある限定された「時間」の中で行われる。例えば徒競走は、走りはじめた時からおのずと進行し、走り終わったときにそれは終わる。遊びはその遊ばれる内容が過ぎ去れば、同じように終わる。遊びはそれ自体の過程としては完結しているのである。しかし遊びはいつのまにかまた始められることがある。「遊びは文化形式として、ただちにはっきり定まった形態をとるようになる。一度でもその遊びが行われれば、それは精神的創造あるいは精神的蓄積として記憶の中に定着し、伝えられて、伝統となる(34)」のであり、「この反復の可能性は遊びの最も本質的な特性の一つである(34)」と彼は述べている。
 次に遊びはある限定された「場所」の中で行われる。この場所は「この範囲まで」と意識的に区分されることもあれば、当然のこととしてひとりでに成立することもある。また競技場やカード卓などのように現実的に区画されることもあれば、「われわれにおいて」というように、観念的に設定される場合もあり、いずれにしろ「周囲からは隔離され、垣で囲われて聖化された世界である。現実から切り離され、それだけで完結しているある行為のために捧げられた世界、日常世界の内部にとくに設けられた一時的な世界(35)」である。

 そして、「遊びの場の内部は、一つの固有な、絶対的秩序が統べている……遊びは秩序を創っている。いや、遊びは秩序そのものである(35)」。この秩序は規則によって成り立ち、その規則は「日常生活から離れたこの一時的な世界の中で適用され、その中で効力を発揮する……遊びの規則は絶対の拘束力をもち、これを疑ったりすることは許されない(37)」ものである。秩序の成立は一つの世界の成立であるが、見方を変えれば、規則を破る者(遊び破り、スポイル・スポート)はその世界そのものを成り立たせない。その者はすでに、その遊びを遊んでいないのである。
 遊びの規則とはどういうものかということについて、日本人に馴染みやすいであろう例を挙げるとすれば、著名な夏目漱石の文学作品『吾輩は猫である』ではどうだろうか。この作品の書き出しは題と同じく「吾輩は猫である」であり、このことはこの作品の根本的な「規則」である。この規則を受け入れない者は、自ずとこの「世界」を受け入れることはできない。

 形式的特徴の他に、ホイジンガが挙げる遊びの要素として特に重要なものとして、「不確実性」つまりは「やってみないことにはわからない」ということがある。彼はこれを一つの呼び方として「緊張」と表現するなら、「遊びは緊張を解こうとする努力である。何か緊張の状態に入ることによって、あることが「成就」しなければならないのだ(36)」という。 「冒険、まだはっきりわからない勝利への期待、成り行きの不確かさ、そして緊張が、遊ぶ心の本質をなしている(122)」のであり、競技や賭け事に顕著に見られる「結果がわからない」ということのみならず、子猫がネコジャラシにじゃれつくことや、パズルの答えを探すことのように「それ」が「何であるか」わからないということすらも、この不確実性、緊張という性質を持っているのである。
 この点に関係することに、日本の哲学者である中村雄二郎(1925-)が著書『述語集-気になることば-』(岩波新書,1984)において、「遊び」に対置される主要な語として「労働」と「有効性」を挙げているのは分かり易い。1の行為に対して1の対価や効果を得る労働や有効性という観念は、なるほど遊びの不確実性とは逆の性質を持つものである。

 ところで興味深いことは、このように考えれば「信じる」という行為はそれが自発的に行われる限りにおいては常に「遊び」の形式的特徴を併せ持つ、ということである。また信じるということがそのことがらの「不確実さ」に対して期待を抱くことであるとするならば、その意味においては「信じる」に対置される語は、物事をありのままに受け入れる「知る」という言葉によって表現されうるといえるのではないか。もっとも、この「知る」ということはあることが常に現実になる必然性を持たない。ただその主体が、わずかでも不確実なものと思って賭けるか、確実なものと思って疑わないか、に過ぎないものである。

 そしてさらに根底的なこととして、物事の「定義」「概念化」ということについても、ホイジンガはそれ自体遊びが織り交ぜられていると考える。「言語によって人間はものごとを弁別したり、定義したり、確認したりしている。要するにそれによって物に名を与え、その名で物を呼んでいる。物を精神の領域へ引き上げているのである……こうして人類は存在しているものに対する表現を、つまり第二の架空世界を、自然界のほかに創造している(23)」のであり、そしてより高度化した神話、祭祀、神聖な行事、奉献、供犠、密儀などにしてもなお、「これらは言葉のもっとも真実な意味で、純粋な遊びとして行われている(24)」、「聖事はそれを共にした人々を、別の世界へ連れ去ってゆくというかぎりでは、やはり遊びなのだ(54)」という。

 「祭祀を共にしている人々は、この行為が福祉を生み、日常生活の世界より一段と高い事物の秩序を創るのだと確信しているであろう。だが、それでいてもなおも、この奉献の儀礼、つまり表現による現実化というものは、いかなる観点から見ても遊びの形式的特徴を帯びたものになっている(44)」と、ホイジンガは諸々の聖事や祭祀(広義のそれ)と遊びの形式的特徴が同じである、という点に強く注目している。では、そのために彼は聖事や祭祀が根本的には意味や価値を持たない、ただの遊戯的な虚構のようなものだと言うのだろうか。

 いや、そうではない。「そう考えたからといって、これら神聖な秘儀を、論理的な知恵ではとうてい近づきえないものの最高の表現として評価することが、断念されたわけでもない。奉献行為はその重要な一つの面では依然として遊びの範疇に含まれることに変わりはなく、聖事の拠って立つ立場をそういうふうに決定してしまっても、それの神聖さの承認まで失われてしまうわけではないのである(71)」というように、彼にとっては聖事が形式上遊びの特徴を持っていることと、それ自体が神聖であることとはまったく別のこと、「遊びという概念は、注目すべきことに、それ以外のあらゆる思考形式とは、常に無関係(28)」なのである。
 そして祭祀についてはこのように言う。「しかし、この遊びが終わると同時にその働きまで消えてしまうのではない。むしろそれは、向こうにある日常世界の上にそのまばゆい光を投げかけ、祝祭を祝っている集団に対して神聖な遊びの季節がふたたび巡ってくるまでの安全、秩序、繁栄を授けてくれるのだ……つまり、祭祀の機能は単にあることを模倣するというのではなく、幸という分け前を与えること、それを頒ち合うことなのだ。そのことを祭祀として演じるということは、「その行為(儀礼行為)に手助けして現実のものにする」ということである(44-45)」。

 ホイジンガが研究の対象としたのは冒頭に述べた通り厳に人間の文化に共通する形式としての遊びなのであり、そのことによって明らかになるのは、人間存在の本質は単に理性にあるのではない、ということである。「動物は遊ぶことができる。だからこそ動物は、もはや単なるメカニズム以上の存在である。われわれは遊びもするし、それと同時に、自分が遊んでいることも知っている。だからこそわれわれは、単なる理性的存在以上のものである。なぜなら、結局、遊びが非理性的なものだからである(21)」。
 つまるところ、彼にとっては人間は遊ぶということによってこそ最も人間らしいのだ。そのため彼はむしろ、「地球上どこへ行ってみても著しく目につくのは、多くの奉献式の風習のあいだに判然とした同質性があることだが、これは、そういう慣習が人間の心のきわめて根源的な、基本的特性に根ざしている事実を示している……遊びと祭式の本質的、根源的な同一性ということをまず受け容れさえすれば……「何のために」「なぜ」遊ぶのか、というような誤った問など、生ずる余地がなくなってしまう(56-57)」と、思考が社会的な功利主義に陥ることがないようにと警告するのである。

 さて、ホイジンガのいう「遊び」の概念をこのように理解するならば、我々が主題として扱う「葬送」すらも、それが本質として遊びの形式的特徴を具えているということに思い至ることは不自然なことではない。いや、文化表現の最たるものともいえる葬送は、むしろその複雑さゆえに高度に遊びとしての形式的特徴を表すとさえ言えるだろう。そうだとするならば、次に我々の興味を引くのは当然その形式的特徴の具体的な検証である。

 葬送における遊びの形式的特徴のうち、最もわかりやすいものはその時間的・場所的限定性であろう。死者の葬送の時間は限定的である。我々はある死者の葬送を断続的に反復することがあり、また葬送を行う者の変化に伴い別の死者の葬送として断続的に反復することもある。しかしどちらにしろ、その異化された時間は葬送の段落とともにある瞬間におのずと始まり、またある瞬間におのずと終わっている。いや、葬りの鐘が鳴り続ける街は、すでにそれ自体が日常との異化を失っている。その傾向が特徴的に表れるのは、戦争や災害である
 そして葬儀場、火葬場、墓、仏壇などは、葬送に使用される限りにおいてその死者のために異化された空間である。また形式的にはより消極的であるように見えても、位牌、遺影、その他その死者を想起する諸々の物もまた同様であろう。さらにはその死者を中心とした葬送に携わる集団は、それ自体がおのずと限定性を持って存在しているといえる。
(つまるところ、ある死者の葬送が、あらゆる時に、あらゆる場所で、あらゆる者によって行われるということはない。異化された時間・場所の固定化は、すなわち現実の世界の消失である。停止した時間と境界を失った場所の中に存在する者は、すでに異界の住人である)

 次に、遊びが日常生活における利害をその直接的な目的としていないならば、葬送における第一義的な目的とは何であろうか。葬送が行われる限りにおいて、その直接の目的は「死者の状態を最良のものにすること」、すなわち死者自身の満足であろう。このことについて、葬送を行うことは葬送を行う者の満足や共同体の結束を高めることに資することなどを目的としているという見方がある。しかしホイジンガが賭け事の例で指摘するように、これら社会的利益が結果的に与えられるとしても、それは間接的、付随的な利益でしかない。葬送を行う者の満足は、その行為の中では死者自身の満足を信じることによってのみ得られるのである

 そしてホイジンガの論を逆に辿れば、このように葬送の目的が日常生活の利害から独立していることによってこそ、葬送はそれを行う者自身の自発的な行為となる。明確にしておくべきことには、ホイジンガの言うように、自発性を失い押しつけられた葬送はすでに葬送の写しでしかない。それは単に死と死者の処理である。なぜならそれは死者自身の満足ではなく、社会的な日常生活の利害をその直接の目的としているからである。
 ホイジンガの言を言い換えてみるとよい。「葬送はいつでも延期できるし、まったく中止してしまおうと何ら差し支えないものである。ただ、葬送によって満足が得られるというかぎりにおいて、葬送への欲求が切実になる、というだけの話である」。

 では、残った形式的特徴、この葬送における絶対的秩序、そこに加わる者すべてがそれを守らないことには、その世界自体が成立しない規則とは何であろうか。まず確認しておかなければならないのは、ここで求められるのはあらゆる葬送における第一義的な秩序であって、葬送がある特定の文化や宗教の一部として成立する過程において与えられる付加的な規則ではない、ということである。
 卑近なもので「ジャンケン」を例に挙げよう、この遊びを始めるにあたって、どのような掛け声を掛けるかということや、まず特定の手を出すことなどは、文化の成立の中で与えられた付加的な規則である。これはあくまでも遊ぶ者の満足をより高めるために与えられる差別化の方法であって、この遊びの根底的な秩序はあくまでも「グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つ」ということである。付加的な規則のどれが抜け落ちようともこの遊びはジャンケンとして成立するが、この根底的な秩序を失った途端、この遊びはそれ自体が失われるのである。

 要するに、文化的・宗教的な様式ややりかたは、それ自体が葬送の第一義的な秩序そのものではない。そうだとするならば、あらゆる葬送を貫く根底的な秩序とは何であろうか。これはその目的の中にすでに全く表れている──遊びの世界が日常生活の秩序からの転倒をその本質とするならば、葬送の秩序もまた当然にそのように転倒したものである──すなわち、「死者は、生きている」ということである。

 葬送の目的は「死者の状態を最良のものにすること」だと言った。では死者の生、つまりは死者の人格的存在の継続がないとするならば、葬送の満足は何によって得られるというのだろうか。人格的存在の継続を失った死体は、もはや「何者でもない」のだから。その処理は、実利と有効性に彩られるのみである。

 フランスの哲学者であった故ウラジミール・ジャンケレヴィッチ(1903-1985)は、著書『』(原1966)の中で、死の瞬間が知覚できない、把えることの不可能なものであると述べた後に次のようにいう。「おそらくは《葬儀》の催事の方が終末に関する夢想よりはいっそう有効なのであろう。儀式は把え難い瞬間を、オペラの曲の最後のように、延長符号のおおづめで恒久化し、その仰々しい響きを引き延ばす。弔いの鐘は、ともすれば気づかれずに過ぎてしまうほど把え難い暗示を告示し、これに挨拶を送り、これを執拗にふくらませる…その響きを引き延ばす演説、オルガンの仰々しい音色によって、最後の吐息は、いわば、永遠の吐息となる…知覚できない瞬間はどうなってしまったのだろう。知覚できない瞬間は、もはやない。それは花と讃歌の堆積の下に消えてしまったのだ(243-244)」(中澤紀雄訳,みすず書房,1978)
 ああ、まだ。今ひととき、この葬送の鐘が鳴り終わるまで…。葬送を行う者が願えば、死者の死の瞬間は引き延ばされ、死者は未だ死なない者となっている。このように、葬送の秩序と目的は不可分なものである。人々が葬送を行う限りにおいて死者は生きているのであり、死者が生きている限りにおいて人々は葬送を行うのである

 このように遊びの秩序と目的が不可分のものであるということは、中村が遊びを「遊びは何かの目的に奉仕するものではなく、遊びの目的は遊びの行為そのものの中にある(2)」と述べた中にも表れている。
 ところでホイジンガと中村の遊びに対する見方には興味深い違いが見られる。これまで見てきたように、ホイジンガは純粋に遊びの本質的な性質を捉えようとしているのであって、その定義は非常に厳格なものである。彼は遊び全体の中に「遊び−真面目」という流動性を見たが、それは本質的に遊びの範疇を越えるものではない。この見方は「遊びは形式的特徴を持つ」ということを超えて、逆に「形式的特徴を失ったそれはすでに遊びではない。それはまったく別のものである」という表現をすべきほどのものである。対して中村は、「<遊び>、<演劇>、<祝祭>に対して今日人々が正当に目を向けるようになったのは結構なことである。だが、それだけにそれらが自発性や異化を欠いて商業主義化、惰性化する危険もまた大きい(10)」と指摘するように、人間社会の中において遊びがその形式的特徴の一部を失って本質が変化したもの、言ってみれば「遊びくずれ」といったものの存在を認めている点が大きく異なる。面白いことに、古今のさまざまな哲学においても、ホイジンガのように人間の本質を厳格に追求しようとすればするほど、しばしばその理論は非人間的ともいえるものになっている。これはいみじくも彼自身が指摘するように、人間が本質的に非理性的なものであるということに起因しているのだろう。
 それはともかく、我々にとって特に人間社会における葬送を考える上では、中村のように「遊び」と「遊びでないもの」の間に「遊びくずれ」といったもの存在を置くほうが現実的でわかりやすい。そしてこのことによってまた、我々には今日の社会における葬送を考える上で新たな視座が与えられることとなる。

 確かに、葬送には遊びの形式的特徴が色濃く表れている。だとしても、葬送における遊びの形式的特徴の一部が失われたからといって、直ちにそれを葬送でないまったく別のものであると言えるほど、葬送に向かう人間の心理は単純に割り切れない。注目したいのはむしろ、ある時代において「伝統的な」葬送が崩れていく時、それを牽引する民衆の「不満」の類型を追えば、それはこれまでに述べた遊びの形式的特徴の部分的な欠落が見えてくるという点である。

@ 葬送を「やらされている」「やりたくてやっているのではない」という不満
 自由で自発的な行動であるという特徴が失われた場合、その行為によって満足を得ることはできない。ホイジンガが指摘するように遊びが反復される中でそれが社会の文化機能として不可欠になっていったとしても、それをなお従前のように履行するかどうかは意識に上ると上らないとにかかわらず行為者の自発性にかかっている。ただし、遊びの形式的特徴における自発性が以降の形式的特徴と密接に関係しているように、葬送においても自発性に対する不満が意識に上って発せられる時には、多くの場合その他の形式的特徴に関わる不満がこの自発性に対する不満を後押しするのが自然である。逆に言えば、ほかに何らの理由もなくただ純粋に「やりたくない」のだと思うことのほうが稀であろう。

A 葬送が「現実的に」できないという不満
 遊びの行為自体は日常生活の利害を直接的な目的としないが、遊びが反復されてそれが社会の中である程度の伝統性を帯びてくると、その様態を守るために「必要とされる」日常生活上の利害が、遊び行為自体と分かちがたいものになっていく。
 現代社会における葬送においてはこれは特に経済的な意味において顕著であるが、そのほか物理的、人的な意味などにおいても起こりうるものである。

B 葬送が「時間的・空間的制約に囚われている」という不満
 同じように、個々の遊びの時空間的な異化は本来遊ぶ者自体に依存する自由なものであるが、伝統性を帯びた遊びはその範囲の社会における「共有性」を指向するようになる。遊ぶ者の満足がこの共有された時空間の中にに見出されるならば問題はないが、しばしばこの共有性は自由な意識にとって制約と映る。
 葬送における共有された時空間の例は、儀式の段階のことであったり、斎場や墓であったりする。そしてこの不満の解消のために表れる代表的な方法が、儀式の拒否や散骨の志向であるといえる。

C 死者のその後を「知っている」という不満
 遊びは非理性的なものであるが、非理性的なものを非理性的なままに受け入れるということは、我々にとって実際には「理性的にそれを受け入れるよりも」困難な場合がある。その意味においては、我々は実に「ホモ・サピエンス」である、と言わざるをえない。人間は遊ぶことによって満足を得る特質と同時に、知ることによって満足を得る特質も併せ持つことは否定できないのである。このことによって、我々は常に「死のその先を知りたい」という希求を抱き続けている。ところがその希求は、時に「ある回答を与えられることによって満足して立ち止まる」ことがある。そして不確実性や緊張を失った遊びは、同時にその満足を得ようと切実に求める力をも失う。その行き着く先はすでに決まっているからである
 こうして、死者のその後を「知っている」者は、その先を信じるのではない。ただ確認するだけである。ならばそこで行われることは、「祈り」ではなく「有効な労働」である。彼らにとって「伝統的な賭け」は、すでに不条理なものでしかないだろう。

D 「死者は生きていない」という不満
 そしてもちろん、純粋な意味での「遊び破り」は、遊びの場の内部の固有な秩序そのものを無にする。あらゆる葬送を貫く根底的な秩序は「死者は生きていること」だと言った。死者の人格的継続が信じられることがなければ、葬送はそれ自体の目的を失う。
 この意味において、たとえ全人的ではなくただその肉体においてのみであっても、現代の死亡認定が医学的判断に基づいてなされるということは、この類型の不満を高める一因になっているともいえる。ホイジンガが「表現による現実化」と言うように、葬送は一面、他の通過儀礼と同様にそれ自体が死を現実化するという機能を有しているが、医学的判断に基づいた死の「瞬間」の認定はその「過程」を不要なものとするからである。現代科学がジャンケレヴィッチの言う「把えがたい瞬間」を「把えたと見做す」ことは、死者が生きていると信じる余地を少なからず奪うものである。そしてこのことが逆の視点から明らかになるのは行方不明者の葬送の場合である。ここでも「信じる」ということと「知る」ということの対比はより鮮明なものとなる。

 葬送に遊びの形式的特徴を見る場合において、遊びくずれといえるもののひとつは死者を対象とした「告別」である。実に、死者に対する告別は対象がもはや生きていないからこそ行われるにもかかわらず、その対象が未だ別れを告げる者の言葉を聞くことができると信じなければ成り立たない。言葉を換えれば、葬送が厳に「死者が生きている」から行われるのに対し、告別は「死者が生きているかのように」行われるのである。
 また葬送の目的は「死者の状態を最良のものにすること」だと言った。葬送においては死者それ自身が満足を得たと信じることによってのみ、葬送を行う者の満足は得られる。しかし死者を対象とした告別の目的が「生きている者が別れを告げること」であるならば、告別を行う者が満足を得るために死者それ自身が満足したと信じることは必要ではない。
 近代、宗教者を中心に葬式の名称として告別式という語を用いることに否定的な見方が少なからずあることについては、背景としてこのような意味において「葬式は葬送を行う場である」という理解があるという点には留意しておく必要があるだろう。

 「本質的に純粋な」遊びの多くは「美しい」と感じられるものである。ホイジンガはそれを遊びに独特の「秩序」のためだと言う。「不完全な世界、乱雑な生活のなかに、それは一時的にではあるが、判然と画された完璧性というものを持ち込んでいる。遊びが要求するのは絶対の秩序なのである……遊びには美しくあろうとする傾向がある、とわれわれは言っておいた。おそらくこの美的因子が、あらゆる種類の遊びを活気づけている、秩序整然とした形式を創造しようとする衝動と、同一のものなのである……遊びは、人間がさまざまの事象の中に認めて言い表すことのできる性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充たされている。リズムとハーモニーがそれである(35-36)」。

 遊びは異化された時空へ一時的に身を置くことであるが、日常の世界においては越えることが困難、あるいは躊躇してしまうような壁を越えるために一時的に異なる秩序の中へと移行する遊びが、通過儀礼と呼ばれる種の遊びである。不完全な世界を生きる我々は、それ故に、折に触れて一時的に完全な世界を創造し、その世界と日常の世界を行き来することによって不完全な世界の困難を乗り越えていくのである。「遊びを通じて、遊びの中で、人間は表現された出来事をあらためて現実化し、世界秩序が保たれるのを助けるのだ(47)」。こうして人々は祭祀を行い、通過儀礼を行う。遊びによって「幸を頒かち合うこと」というのはこのような意味である。遊びの秩序は日常の世界の秩序とは独立したものであるが、日常の世界に遊びという世界を挟み込むことによって、人間の日常の世界の秩序が保たれるのである。

 しかしこの点においても、遊びは「やらなくてもいいもの」であるという本質を失ってはいない。たとえ困難であろうとも、日常の世界の秩序の中でその壁を越えるということは不可能でないのであれば、通過儀礼はただその困難さを容易に乗り越える手助けをする以上の機能はないからである。重要なのは、あくまでもこの秩序の安定とは我々人間にとってのそれであって、世界そのものは、遊びによる秩序の安定を求めているのではないということである。

 ともかく、「遊びと祭式の本質的、根源的な同一性ということをまず受け容れさえすれば……「何のために」「なぜ」遊ぶのか、というような誤った問など、生ずる余地がなくなってしまう(57)」。しかし中村の指摘するように、日常の世界の利害に引きずられ自発性や異化を失って商業主義化、惰性化した遊びは「必要・不必要」という議論の対象になる。現代の葬送においてもこれは顕著な傾向であるが、こうして明らかなように、その議論の対象はすでに遊びではなく「遊びくずれ」と呼ぶべきものである。

 だから、我々が我々自身に問うべきことはけして多くはない。

 死者は満足したか。
 その表現は現実化されたか。
 その幸は頒け与えられたか。

 あなたの葬送は、美しいか。


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