「献花」と「供花」


▽ はじめに

 1950年代中ごろ、イラク北部のシャニダール洞窟で発見されたネアンデルタール人の遺骸の周囲に、洞窟内で咲くはずのない花の花粉が見つかったという報告が人々を驚かせた。
 何万年も前の亜人類が死者を葬る習慣があり、さらに遺体に花を捧げたのではないかと想像できたからだ(この推測に対しては賛否両論あるようだが)。

「人と動物の大きな相違点は、弔いをするかどうかだ。従って、人類が生まれた時から葬儀はある。」と言われている。
 ただの「遺体処理」と「弔い」は違う、とも言われている。そこには弔う者の悲しみがあり、人類はその弔いを通して自分の中の悲しみと向き合い、さまざまな方法でその悲しみを表現してきた。
 その最初期から有り、未だ変わらぬ表現のひとつが、「故人に花を贈る」ということなのではないか。

 今回はこのテーマを軸に、現在日本で行われている「故人に花を贈る」行為について、キリスト教葬儀社からの解説と思索を、できるだけ平易に述べてみたい。

▽ 方法による区分

 現在日本で行われている「故人に花を贈る」行為は、その具体的な方法から「献花」と「供花」に大別できる。
 大まかに言うと、「献花」とは、故人との告別や記念に花を贈る行為、「供花」とは、式場や自宅に飾るために花を贈る行為である。献花が直接的に故人に向けて贈られるのに対し、供花は「葬儀を形作るために」間接的に遺族などに向けて贈られるものと理解できる。
 もっとも「献花」「供花」という言葉自体が、宗教的な意味合いなどから賛否両論あるだろうから、ここでは「仮に名称を付けて区分すると」と言っておいた方が適切かもしれない。
 ともかく、多くはこのように分けられ、呼ばれていることをまず確認しておきたい。
※ ちなみに、アメリカ在住の友人によれば、当地では献花も供花も名称としては単純に「flowers(花)」か、せいぜい「funeral flowers(葬儀花)」だと思う、とのこと。

▽ 献花の具体例

 「献花」と一口に言っても、その方法はさらにさまざまである。
 冒頭のネアンデルタール人の例も、この区分で言えば献花であろうし、ドラマなどでよく見る海に花束を投げるのも献花であろう。
 しかし「献花」と言って一番に思いつくのは、やはり告別式などの式典の中で行われる献花ではなかろうか。特にキリスト教葬では一般的だが、近年は無宗教葬や慰霊祭、またホテルなどでの葬儀では仏教葬でも献花が行われることがある。
 多くの場合、参列者は各々一輪ずつの花を持ち、一人ずつ式場の前に向かって進み、柩や遺影の前に置かれたテーブルの上に花を置いていく。またあるいは、テーブルに置かず、ふたを開けられた柩の中に花を入れていくというものもあり、ひとつの式典の中で両方が行われることも多い。
※ 葬儀業者はこれらの混同を避けるため、前者を「献花」、後者を「お別れ」などに呼び分けることが多い。

 使われる花は、キリスト教葬では白のカーネーションが多いが、無宗教葬などの場合は白菊も多い。
 キリスト教葬でカーネーションが選ばれる理由としては、「母の日」のイメージ(亡くなった母には白のカーネーションを贈る)もあるだろうが、もっと実際的に、@一輪咲きA茎がしっかりしていているB持ちやすい長さがあるC白色の品種がある、という条件を満たしているからだろう。
 同様の条件を満たす花としては、前記の菊やバラなどがあるが、菊は仏教葬のイメージが強いということ、バラは棘があることなどから、あまり使われていない(私は別段こだわりがないので、ご要望が有れば用意しているが)。
※ 余談だが、旧来は仏教葬ではバラなど棘のある花は使ってはいけないとされていた。「葬儀は生命の尊さを学び、不殺生を想う場であるから、他者を傷つける棘を持つものは使ってはならない」という考えからだと言われている。最近でも厳しい人はそう言う。
 また献花は白色が多いが、これも(特にキリスト教葬では)決まりがあるわけではなく、日本人の死と葬儀に対する色のイメージからだろう。
 なお直接柩に入れる場合は、式場に飾ってある生花を切って入れることも多いので、(仏教葬においても)種類や色はさまざまである。

▽ 献花の意義

 献花は、冒頭でも触れたように文化的には「悲しみを表現する」ための方法のひとつである。
 そのため、一般には仏教葬における焼香に代わるものと理解されがちだが、キリスト教葬では異なる意味付けをされる。仏教葬などでは「故人に対して生花を捧げる」のに対し、キリスト教葬では「遺体(柩)を飾る」こと、また参列者の感情の発露として献花をするということが強調されるのである。
 これは、キリスト教においては「献げもの」は主(神)にするものであって、人にするものではないという根底があるからだ。
 もっとも、これをことさらに強調しなければならないのは、日本ではキリスト教徒が少なく、前述の趣旨を理解されにくいからであろう。
 それゆえ、教派・教会によっては意義を明確にするために名称を「飾花」とする場合や、会葬者に対して事前に趣旨説明が行われる場合もある。
※ 「飾花」は一部の教会で使われている。

▽ 「献花」という名称の問題

 ただ、あえて先生方からのお叱りを覚悟の上で言わせていただけば、グリーフワークの視点から、(キリスト教徒の少ない日本だからこそ)遺族や参列者に「気持ちのありよう」まで示唆することは行き過ぎではなかろうかと私は考えている。
 多くの遺族や会葬者にとって、(信仰理解はともかく)そこに横たわる故人は未だ「土の器」ではなく、自分との関係を残した個人であり、「その人に花を贈りたい」という気持ちを否定されたと誤解してしまうおそれがあるからだ。
 特に、遺族がキリスト教徒でない場合はその危険性が高い。こういったことは日頃から勉強会などが持たれて趣旨説明がなされているなら誤解もないだろうが、いざ葬儀の場で遺族に説明したとしてもなかなかすんなりは受け入れられないものである。

 この問題については、「献花」という言葉に原因の多くがあるように思う。
 日本語であるから、当然日本の大多数の心情に沿って造られているのであって、そのため「献」という字が用いられている。しかし、キリスト教徒の心情としては、「献金」などにイメージを重ねてしまい、まるで故人に献げているかのような引っかかりを感じるのであろう。
 もちろんほとんどの牧師や信徒は主に献げるように故人に献げているという感覚は無いが、一般の人がこの文字を見た時に誤解がないか懸念しているのである。
 そういう意味では「飾花」はひとつのアプローチではあるが、あくまでキリスト教側としての解決である。
 つまりは、故人に花を「献げる」のではなく、「贈る」のだということを表現すればよいわけだが、さりとて「贈花」という言葉は無いし、語を造ったとしても音はおそらく「ぞうか」であるから、「造花」のようでなかなか浸透しないだろう。
 一般の人から見ればまるで冗談のような悩みに見えるかもしれないが、私にとっては至って深刻である。何か良い解決策はないものか、神学的なご意見を交えて考えてみたいものだ。

▽ 実際に献花をする際の注意点

 献花に際して特に注意しなければならないのは、その時間である。
 式場の広さ(通路の広さや一度に献花ができる人数など)にもよるが、おおよそ会葬者100名あたり10分程度は確保しておいた方がよい。
※ あまり断定的には書きたくないが、二人ずつ献花をするとして、100名で平均7分程度というのが実感である。教会員ばかりだとすごく早かったりもするが、参列者の傾向や年齢層から予測し、余裕を持って臨みたい。
 特に、@柩のふたを開けて故人の顔が見えるようする、A立礼に立つ遺族が多い、B献花の場所から立礼場所までが近い、C通路が狭く進路と退路が同じ、などの場合には献花の時間が予想外に延びることが考えられるので、注意が必要である。
 また、D始めのほうの遺族が柩(あるいは遺影など)に礼をしたり、E振り返って参列者に礼をしたりすると、後の者が同様にしてしまい時間がかかるケースもある。
 このほか、火葬場で献花をする場合なども、遺族の人数からおおよその時間を想定しておかなければならない。ただ、どのような状況であれ、時間を理由に参列者に献花を急かすことは避けるべきであり、計画段階で参列者の人数をできる限り正確に読むことと、それを基に余裕を持って時間予定を組むことが重要である。
※ キリスト教葬専門の葬儀社でない場合はそういった知識に乏しい場合もあり(一般葬儀社はキリスト教葬の経験の絶対数が少ないためしかたがない)、依頼の際は教会側から指示をしておくことも重要である。

▽ 献花の向き

 献花の向きについては明確な決まりはないが、キリスト教葬では花を参列者側、茎を柩や遺影側に向けることが多い。
 これは、花が手前に来ることで、より柩を飾る(飾花)という趣旨に添うというのが理由だろうが、故人に捧げるという感覚の強い無宗教葬などでは花を柩に向けることも多い。
 ただ、だからといってそれぞれに自由にしてよいというのではなく、最初の人(ほとんどが遺族や宗教者)が自分の考えと違った方向に置いたとしても、後の参列者はそれにならうべきであろう。
 また、柩の中に献花をする場合には、花を故人の顔の方に向けるということでほぼ統一されている。
 なお、マナー本などによっては、「献花は(祭壇に一礼した後)玉串と同じ要領で回し、花を手前にして置く」と書いてあるものも多かったが、もちろんそのような規則はない。近年は理解が進んでそういった表記はだんだんと見かけなくなってきている。

▽ 牧師の献花

 牧師の献花のタイミングとしては、遺族の前にする場合と、一般参列者の後にする場合に大別される。
 実感としては遺族を優先させるために最後にすることの方が多いようだが、始めにすると後の遺族参列者に例を示すことができるという利点もある。
 またこのほかのタイミングとしては、開式の時(牧師の入場時)にする牧師もいる。これは数は多くないが、前述の「献花の時は遺族から」と「後の参列者に例を示す」の両方を兼ね備えた合理的な方法かもしれない。

▽ 献花に関するその他のケース

 このほか、献花に関わるいくつかのケースとしては、@「葬式は(本来は)一回だけ」という観点から、当日の式に参列する人は前夜式では献花をしない場合や、A遺族の献花は式中(礼拝の時間)に、一般参列者の献花は式後(告別の時間)にする場合などがある。
※ どちらも主張はよくわかるのだが、一般参列者にはわかりにくく混乱を招きやすいようだというのが実感としてある。

▽ 「献花」という儀式の必要性

 ここまで、現在の日本における(おもにキリスト教の)献花の実例を解説してきたが、そもそも「儀式」としての献花が必要かどうかということについては一考の余地がある。
 しかし、このことを考える上で、葬儀の中から「献花」だけを取り出し、その賛否を論ずることは適当ではない。

 このような「儀式」としての献花は、日本の葬儀文化が生み出した独特なものだと言えるのだが、それには、「葬儀の持ち方」が大きく関与しているのではないか。
 海外の事情を見ると、米国では日本の前夜式にあたる式典は特にない。当地で前日に重点を置かれるのは「ビューイング」、つまり遺族や出席者が故人と向き合う時間であり、式典を持たずある程度自由に出入りして個々に告別の時を持つのであるが、近代日本における葬儀は、参列者の拡大化と共に前日式の一般葬(一般参列者のある、当日式に準拠した式典)化がひとつの定格としてある。
 旧来、日本における「通夜」は、式典ではなく自宅において遺族や近親者が故人と向き合う、すなわち「ビューイング」が中心であったのが、一般会葬者の利便性(日本の勤め人が平日の日中に葬儀に参列することは困難であるという事情など)を追求するあまり、当日式と変わらぬ様相を呈しているのである。
※ 仏教葬では近年、式典化した「通夜」を「通夜式」「通夜の儀」などと言うことも多く、すでに別のものと化している。
 当然、日本におけるキリスト教葬儀とて例外ではなく、自宅などで持たれていた「祈祷の時」が「前夜式」として一般葬化している。
 そのため、「ビューイング」の時間が減少し、遺族はともかく一般の会葬者に至っては、極端に言えば式典の中の「告別の時」の一瞬にしか故人と向き合う時間を持てなくなっているのである。

 葬儀は、文化装置としては「悲しみを表現するための行い」である。にもかかわらず、この一瞬の時間に、ただ遺影や柩を眺めて通り過ぎるのでは、参列者のグリーフワークは不足する。
 そこで、「表現」のひとつとして献花が行われ、よりそれがグリーフにとって満足を得るため儀式化していったと考えられるのである。
 このような経緯であるから、先述の「名称の問題」で触れたような、「宗教としての儀式」との齟齬が生まれ、問題をより難しくしている。

 従って、「儀式としての献花は、必要とまでは言えないが、現在の日本の葬儀においては(文化的に)重要と言わざるを得ない」というのが私見である。もちろん宗教的には必要ないということは言うまでもない。
しかし、昨今の複雑な葬儀事情、とくに葬儀の大型化に対する反発(家族葬などの注目)などから、献花のあり方も大きく変化する可能性があることは特に認識しておきたい。

▽ 現在の献花に対する提言

 また、葬儀社に勤めるものとしては個人的に、現在行われている献花にはいくつかの提言がある。

 ひとつは名称の問題だが、これは前述の通りである。

 次に、ごく実際的な運用面での課題だが、現在広く行われているように、@参列者が前へ進み、A花を受け取り、B献花をする、という方法は、広い教会や式場ならば何ら問題ないのだが、狭い式場では通路や奉仕者の立ち位置に苦慮することが多い。
 そこで、@献花は受付か式場の入り口で渡し、A式中はずっと持っていて、Bそのまま献花に進む、という方法を試みてみたいのだが、いかがだろうか。
 ただ、教会員が「何らかの奉仕をしたい」という気持ちがあることも理解できるし、渡し漏れがあった場合や、折れてしまった場合にどうケアするかという課題もあるので、若干の試行錯誤は必要だろう。

 もう一点、献花の必要性の議論に通ずることだが、これも現在広く行われているように、遺族が参列者のために献花を用意するということに対して若干の違和感を覚えるということである。
 もちろん、仏教葬を例に挙げれば、取る物も取りあえず弔問に訪れたお客様に、「これで弔ってやってください」と線香をあげてもらうという気持ちのやりとりは理解できる。
 しかし、そもそもこのテーマの中核にあるように、献花が参列者から故人への贈り物であるならば、参列者は各々故人に贈りたい花を持参して贈ればよいというのが本来ではなかろうか。
 現在でも花束や籠花などを式場に持参する参列者はいるが、これらは後述の「供花」として扱われることがほとんどである。これは、式場のスペースや時間の都合など実際的な理由からであり、それゆえ全員が花束などを持参すればよいということではない。具体的には参列者が一人一輪(本)を目安に花を持参する、あるいは式場の外で(教会内はまずいので)花屋さんが出張販売したりという方法が実現できないだろうか。
 諸般の事情を考えると、現在のスタイルは当分の間維持されるであろうが、私の葬儀の時は献花を用意しないように家族に言っておくつもりである。

▽ 閑話

 先にお詫びしておくが、「儀式的な」献花の必要性についての論は、それらしく書いてはいるが実は出典がない。葬儀の現場に携わる中で、「話を総合すると」ということである。
 それゆえに、この通りであったとしても、これらのことをキリスト教徒でない人が要約すると、「仏教の焼香や神式の玉串に変わるもの」という表現になるのはいたしかたないのではないかとも思う。
 そもそも日本においては「儀式的な」献花はいつ頃から行われているのであろうか?
 献花は米国のそれを模倣しようとしたものだったのだろうか?
 始めて行われた献花は、本当に焼香の代わりとして行われたのだろうか?
 正直なところ、これらのことに「正解」が与えられたとしても、現在の献花を考える上ではあまり意味がないかもしれないが、個人的には興味が尽きない。
 献花に関する文献をお持ちの方がおられるなら、ぜひ教えていただきたいと思いながら、閑話休題。

▽ 供花の具体例

 献花と同様に、「供花」も実際はさまざまである。
 まず自宅に飾る場合には、@花束、A籠花(花屋さんではアレンジ花と言うことが多い)、B台付きのポット花、などである。
 スペースや後の管理などを考えるとAが多いように思うが、一般の葬儀社に依頼するとBが多いかもしれない。
 遺体の枕元に置く花を、特に「枕花」と呼ぶことが多く、これは遺族が用意することも少なくない。
 次に式場に飾る場合だが、これは地域によって@スタンド生花とA花輪に大別できる。
 阪神間ではおおよそ@である。Aの地域では「供花=花輪」であり、@のことは「生花」や「盛花」などの名称で呼ばれることもある。

 式場に飾る供花を依頼する場合、花の種類や色を贈り主が指定することは少ない。
 理由としては葬儀社に依頼することが多く、商品の定格があることが多いということ、また他の供花との調和を重視して、葬儀社や花屋さんに任せることが多いということが挙げられる。
 自宅などに贈る場合も同様で、花屋さんに「葬儀で使うんですが…」という注文をした経験のある方も多いだろう。そういった場合、花屋さんはおおよそ「白っぽい」アレンジをしてくれることがほとんどであるが、キリスト教葬では(近年は仏教葬でも)別段白にこだわる必要はない。
※ ただ、こちらの理解はともかく、遺族の中には「葬儀は白」という観念を持っている人もいる「かもしれない」という前提で、あまり派手なものは贈らない方が無難であろう。
 なお、キリスト教葬で百合が使われることが多いのは、百合が「復活のキリスト」を象徴しているからだと言われているが、あまり多用しすぎると香りが強く苦手と感じる人もいるということは注意しておきたい。

▽ 供花の意義

 供花には、これも大別してふたつの意義がある。
 ひとつは花を贈ることによって遺族の慰めとすること、もうひとつは贈る側が「弔いに参加したい」という意志を表現するという社会的意義である。
 これらは贈る側の意図によってどちらかのみということもあるが、普通は両者を兼ね備えている。
※ なお、供花を「会社名の宣伝だ」と主張する人もいるが、仮にそういう供花があったとしても、それは「意義」ではなく「目的」であるし、そもそもここで論ずるべき趣旨に外れているのでここでは取り上げない。

▽ 「供花」という名称の問題

 「献花」と同様、「供花」という語についてもキリスト教会では異論が多い。
 やはり日本語で「供える」と言えば神仏(=故人)に捧げているというイメージが払拭できないからだ。
 阪神間ではあまり聞かないが、「弔花」という語もあるので、どうしても抵抗があるようならこれらに移行していくことも考えられる。

▽ 実際に供花をする際の注意点

 供花をするに際して注意しなければならないことはまず第一に、遺族に慰め以上に煩わしさを感じさせてはいけない、ということではないだろうか。
 大型の葬儀会館ならばともかく、教会(特にプロテスタントの)や自宅では許容空間に限界がある場合も少なくない。できうるならば、先方のイメージを持ちながら発注し、許容量を超えそうならば弔電などに代えることも考えたい。
 時折「会社の規定だから供花を贈ります」と臆面もなく言ってのける人がいるが、こういった形骸化が「会社の宣伝」との批判に繋がるのである。
 また、さまざまな理由で一般の人からの供花を辞退している喪家もあるので、事前に確認するべきである。
※ 時折確認せずに供花を持ってくる花屋さんがいるが、これも注文を受けた時点で確認してから納入していただけるとありがたい。

▽ 供花と名札の掲示

 仏教葬などでは多くの場合、供花には贈り主の名札が掲示されている。
 それらはほとんどの場合「順位不同」と書かれているが、実際には故人や遺族との関係の深さや、社会的地位の順に並んでいる。
 日本のキリスト教会ではこの名札に対し否定的な意見が多い。その中でも特に多く理由とされるのは、「葬式は礼拝であるにもかかわらず、その中でことさら会社名などを掲げ、その順序によって優劣を決めるかのような行為だから」というものであろう。
 しかし名札の掲示については社会的な要望も強く、折衷案として礼拝堂外の(例えばロビーなど)参列者が見て通る場所に名札だけを掲示している場合も多い。

▽ 「商品」としての供花

 少し裏話になるが、多くの葬儀社から見れば、供花は収益を増やす上で欠かせない商品のひとつだといえる。
 なぜなら、生花部門に作成と設置を委託すれば、葬儀社は(極端に言えば)受注をするだけで収益になるからだ。
 また贈る側も、先に述べたように発注の簡略化や他の供花との調和を希望することが多く、これらの需要が相まって、「供花は葬儀社に依頼するもの」という構図ができあがっているのである。
 この実情そのものは、現代における社会のニーズの合致であるから批判はしない。しかしこの構図が行き過ぎ、時折いわゆる「持ち込み料」を要求する大手の葬儀社やホテルなどがあることも、供花を贈る際には注意しておきたい。

▽ 海外の実例に見る認識の違い

 ここまで、現在の日本における「供花」の実例を解説してきたが、キリスト教葬儀の多い海外の事情について少し触れておきたい。
 アメリカ在住の友人によれば、当地での供花は日本とはいくつかの点で違いがある。
 ひとつは、供花の依頼は葬儀社にするのではなく、贈り主が花屋さんに直接「こういった花を」とオーダーするということ。従って、式場にはさまざまな(贈り主の希望による)供花が並ぶことになる。
 ふたつめは、それらの供花には贈り主がメッセージカードを添えることが多いということ。これは、日本でも籠花などに添えるメッセージカードを想像していただければわかりやすい。日本の供花の名札ほど大きいものではないが、当然、「その花の贈り主の名前が明確にわかる」わけである。

 言葉を選ばずに言えば、これまで述べてきたような日本人にとっては気がかりな点(調和や名札の問題)を、当地の人々は「全く意に介していない」のである。
 これは、冒頭で述べたように、「花を贈る」行為が贈り主の「思いを表現する」ための(文化的な)方法のひとつとして共通に認識されており、そこに宗教的な儀式との齟齬や対立そのものが存在しないからではないかと考えられる。
 グリーフワークを中心に考える葬儀社の視点からすれば、こちらの方が本義に則っていると思うのだが、いかがだろうか。

▽ おわりに

 今回このように、「故人に花を贈る」行為について考えたとき、私は贈る側のグリーフワークを強く意識してきた。
 しかし、実際に日本で行われているこれらの行為は、ここで述べているように儀式や慣習に囚われている部分が多くあるように思える。
 一面には、儀式化することで弔いの行為を明確化し、(人によっては)グリーフワークが促進されるという利点もあるのだろうが、葬儀の自由と多様性が注目を集める昨今において、その認識だけでは多くの遺族や弔いの意志を持つ人々に対応することは困難であろうと思う。
 極端な話、「あなたの悲しみを表現する方法が、花を贈ることでないならば、これをする必要はない」とも言えるのである。
 「故人に花を贈る」行為は「儀式」だからするのではなく、「悲しみを表現するひとつ方法」だからするのであるという認識に立ち返り、これからの葬儀を考えていきたいと思う。


△ to PageTop . △ to WebsiteTop .