キリスト教葬儀は存続できるか


▽ はじめに

 近年巷では仏教葬儀が崩壊の途をたどっていると騒がれている。日本において300年以上も続いてきた仏教葬儀がこうも急激に衰退するとは、驚きとともに何とも言えないやるせなさを感じる。
 日本のクリスチャンの多くは、この状況を仏教葬儀特有の事情によるものと見ているようだ。確かに日本の仏教と葬儀の関係は非常に特殊である。歴史上の必然からその活動を葬儀に特化しすぎた結果、現代人の葬儀における宗教的要求が薄れていく中で仏教という宗教そのものの地盤が揺らいでいるのは間違いない。
 日本における仏教とキリスト教は多分に性質が違う。キリスト教には「自覚的信徒」が多いし、組織運営も日常的な献金によって行われているため葬儀に際しての金銭的負担は比較的軽い。戒名もなければ定まった法事もない。仏教に浴びせられる不満の多くは無縁のことのように見える。

 しかしキリスト教葬儀の今後は本当に「安全」なのだろうか。どうも私は先般から暗い話ばかりしているような気がするが、今回も「思い過ごしならそれに越したことはない」類の話である。

▽ 三つの危険因子

 こういう話をするのだから当然、私はキリスト教葬儀の今後について「かなり危うい」と思っている。これは日本におけるキリスト教そのものの危うさでもあるが、私の特性上葬儀に関連して考えてみたい。

 大きな危険因子は三つある。

T.クリスチャン死亡数の急激な増加による、教会組織と牧師の疲弊
U.社会経済の低迷や年代別人口バランスの崩れによる、家庭の疲弊
V.信仰承継の脆弱さによる、実質的な祭祀承継の崩壊

 これらはそれぞれが独立して起こるわけではない。同時に起こるからこそより大きな危険をはらんでいる。

▽ T.クリスチャン死亡数の急激な増加による、教会組織と牧師の疲弊

 近年、牧師と会談する中で「教会員が高齢化しており、いつ葬儀があってもおかしくない」という話題が非常に増えた。いやすでに数年前からちらほらと話題に上っていたが、ここに至って実感を伴い動揺が広がっていると言うべきだろうか。
 高齢化・死亡者数増加は日本社会全体で進んでいる。年間死亡者数も2003年(平成15年)以来100万人を下ることはなく、いまだ増加の一途を辿っている。統計局ではおよそ2040年頃に年間死亡者数はピークを迎え、その数は170万人に達すると予測している。
 そう聞いて「なんだまだ30年後の話か」と安心してはいけない。クリスチャンに限って言えば、年間死亡者数がピークを迎えるのは2020年代、実に10年後には危険域に入ると予測できるからである。
 日本全体の年間死亡者数が2040年にピークを迎えるのは、終戦直後の第一次ベビーブーム世代(いわゆる団塊の世代)が推定死亡年齢に達するからである。終戦直後と言えばキリスト教ブームも起こり、その頃クリスチャンになった人たちが今日まで日本のキリスト教基盤を大きく支えているのはご承知の通りである。
 注目しなければならないのはこの当時ベビーは0才、しかしクリスチャンになった人たちは10代後半から30代ぐらいの青年層が多かったということである。すなわち日本のクリスチャンの年齢層は日本全体のそれよりも20才ほど高いために、変化はその分前倒しで現れると推測できるのである。

 教会あたりの葬儀施行件数は増える。それだけではない。クリスチャンの年齢バランスが偏っているということは、この世代にある牧師も多いということである。件数は増えて担い手が減るということは、牧師一人あたりの負担は激増することになる。
 さらに言えば葬儀実務は通常の職務に比べその性質が特殊である。突発的で予定が立たない、事前に訓練がしづらい、通常の職務がダブつくので代休も取れない。また遺族のグリーフに対応できる専門的なカウンセリングスキルを身につけている牧師がどれだけいるだろうか。
 現在においても「日本の牧師は忙しすぎる」と言われているのに、この上まだ葬儀実務が重くのし掛かってくれば「潰れるな」というほうがムリな話である。
 ではその負担を教会組織が分担できるかといえばこれも大いに困難である。教会員そもそもが高齢化している上に、現代では働けるギリギリまで社会で働く傾向が強い。そうすると突発事案に対応できて労務も苦にならない教会員がどれほど確保できるだろうか。小規模教会では現在でもすでに葬式時のオルガニストの確保すらままならず、近隣教会に応援を要請したりヒムプレイヤーやアカペラを余儀なくされているところもあるのに。

 実務の担い手が不足し、それでもムリをすればガタがくる。これが第一のラッパ…違った、予測しうる危険である。

▽ U.社会経済の低迷や年代別人口バランスの崩れによる、家庭の疲弊

 次の危険は経済的な不安である。昨今の世界的不況などによって家計が厳しい状況に晒されていることはご承知の通りだが、こと葬儀に関してはそのことだけにとどまらない。さらにいくつもの複合的要因によって実質負担感は現在でも非常に大きくなっている。
 ひとつめは終末期医療・介護の長期化によって葬送時における貯蓄が著しく減少しているケースが増えていることである。
 ふたつめは現在なお進行中の少子化によって、支えられる層に対する支える層の人数が減っていることである。これは現在年金問題などで注目されていることであるが、当然老齢機が過ぎて年間死亡者数が増えれば、これはそのまま葬送負担の問題にも直結する。
 みっつめは現在の日本の葬送がその実務の多くを葬儀業などに頼っているために、労務費などがかさみ最低負担費用が高いことである。葬送実務を個人で行うことも諸事情から事実上困難であるし、さらに葬送に対する行政の手入れは医療・介護のそれに比べると極端に弱い。せいぜい地方自治体による火葬費用補助や健康保険関連の葬儀費用補助(葬祭費や埋葬料等)ぐらいのものである。

 これらのことから起こる葬送関連費用の緊縮は間接的に教会会計にも影響する。葬儀献金収入の話ではなく、葬儀では教会にも費用負担が生じるためにその補填ができるかどうかという問題である。
 例えば一ヶ月のうち教会の建物の水道光熱費をフルで使用している日は、部会などの少ない中規模以下の教会では礼拝日とその前日ぐらいであるから8〜10日である。これに加えて平日に2日間使用して葬儀を行ったとすると単純計算で水道光熱費は20〜25%増になる可能性がある。しかも近年は寒暖の変化が激しく、冷暖房費がかさむことを考えるとこの上積みは大きい。
 式次第の印刷などを教会内でするところも多い。用紙の費用、輪転機の維持管理費のほか、牧師の負担を軽減するためには事務員の配置なども必要になる場合がある。
 埋葬に関する費用も切実である。墓地実質の維持管理費、墓碑の刻印費などは事実としてかかる。「お金がないなら教会墓地には入れません」と言えない以上、この費用をどこかから捻出しなければならない。

 お金の問題は精神論では如何ともし難い。これがふたつめの予測しうる危険、いやひとつめよりもすでに顕在化しつつある問題である。

▽ V.信仰承継の脆弱さによる、実質的な祭祀承継の崩壊

 もうひとつの危険は墓地承継問題である。(プロテスタント教会では特に「祭祀」という語を嫌う傾向があろうが、実質的に類型の行為が行われていることは否定できない)
 現代、日本社会にはいわゆる「墓地難民」が増えてきている。これは散骨など墓地を「持たない」選択をするのではなく、墓地を「持てない」人々や、墓地に「居続けられない」死者たちのことである。
 墓地難民増加の背景には、ひとつ目には経済的な事情、ふたつ目には受け入れ先の不足、その他、後継者問題などがある。
 キリスト教会においてこの問題は今日あまり意識されていないと思われるが、中長期的に考えると決して無縁のことではない。

▽ 教会墓地の歴史と現状

 日本のプロテスタント教会では、各々の教会で公営墓地を借りるなど個別に墓地を持つことが多い。それに対し、カトリック教会では公営墓地の一角に専有的な区画を与えられ、司教区単位で利用することが多い。これにはどうやら歴史的な背景があるようだ。
 近代日本においてキリスト教葬儀が公に行えるようになったのは明治17(1884)年であるが、その前、明治5(1872)年には神道の神葬も解禁された。解禁に当たっては、「神道で葬儀を行うのであれば、当然墓地も神道のものを整備してほしい」という要望が上がった。そこで行政は神葬用墓地を新設したり、公営墓地の一部について神葬に優先権を与えるなど対策を講じたのであるが、その後キリスト教葬儀が解禁されると、「神道は有りでキリスト教は無し」というわけにもいかず、キリスト教についても埋葬に当たって差別的にならないよう配慮する必要があった。太平洋戦争終結後はなおさら整備が急がれた。
 日本にプロテスタント教会が入ってきたのは約150年(沖縄ではもう少し)前であるから、カトリックに比べれば新興勢力である。行政も、「キリスト教といえばカトリック」と考えて墓地専有権を与えたとしても不思議はない。また、個別性の強いプロテスタント教会はその性格からも、全体を掌握していて権利を与えるに相当な司令塔が無かったのであろう。
 また、ヨーロッパほどではないにしろ、日本でもプロテスタントのほうがカトリックより火葬の受け入れに前向きで、土葬用の広い墓地を必要としなかったことも、プロテスタント教会が積極的に墓地専有権を主張しなかったことに関連するかもしれない。

 現在、プロテスタント教会の多くは公営墓地などの一角に数聖地(*1)を借り、教会墓として合葬墓や納骨堂、あるいはその複合した墓を建てている。稀に、古く規模の大きい教会では、ある程度の面積を専有し個人墓や家族墓を併置しているところもある。墓に入るのは基本的にはその教会の教会員であり、教会員の縁故者や、その他の特別な事情によらない限り、外部の死者を葬ることはないのが普通である。
 また、教会の建物の一室を納骨室に造り替えたり、敷地内に納骨堂を造っている教会もある。ただ、都市部では敷地面積の都合などもあり、多いとは言えないようだ。
 規模の小さい教会や新しい教会では近年の事情から墓地取得に至らず、教会員各々の家墓などに納めながら教会墓地取得に向けて計画を進めているところも少なくはない。
*1 「聖地」は墓地区画の広さを表す一般的な単位

▽ 存在する課題

 現在教会墓地には、ふたつの大きな課題がある。
 ひとつ目は、超教派・教会の合葬墓などの整備が進んでいないことである。前述のように、プロテスタントの教会墓地は通常その教会に所属する信徒のみを受け入れの対象にする。そのため、墓地を持っていない教会の信徒や、教会に所属していない、あるいは遠ざかっている人、また夫婦の片方しかクリスチャンでないために、共に教会墓地に入れないとった人たちを広く受け入れられる墓地がほとんどない。
 ふたつ目は、教会墓地単位の「無縁墓地化」に対策が必要なことである。残念ながら、日本のキリスト教全体の教勢は今後30年程の間に大幅に減退することが予想されている。すると、現在一般の家墓で顕在化してきている墓地の無縁化問題が、教会墓地にも当てはまるようになる可能性が否定できない、いやむしろ多分にある。教会の閉鎖や統廃合によって守る者(教会)のいなくなった墓地、また教会の経済的事情などから維持が困難になった墓地を、どこがどう引き受けていくかという問題である。

 このどちらの問題も、解決の方法としてはキリスト教区画の一部を借りて家墓を建てるという選択肢もあろう。しかし経済的事情、承継者の問題、遺骨の量(死者の人数)などを考えると、合葬墓の需要は現在でも存在するし、早晩より高まるだろう。
 可能であればやはり全体に影響力のある包括法人である日本基督教団などが、カトリックや他の教団とも連帯して「日本の全キリスト者のための合葬墓」を全国のいくつかの場所(北海道・北陸・関東・中部・近畿・中国・九州など)に造り、日本のキリスト教全体の将来に向けた安心のために備えるということを求めたいところである。(ちなみに、日本基督教団の東京教区及び大阪教区では、教区内の信徒向けの合葬墓を持っているらしい)

 なお、この問題は我々葬儀社がどれだけ問題意識を持とうとも、企業では対応できない。現在の行政の方針では、墓地を運営できるのは地方自治体かそれが無理な場合でも宗教法人や財団法人に限られるからである。

 日本人の信仰は「死後の安心」に支えられている面が多分にあると言われているわけであるから、伝道の側面からもこの問題はいずれ避けては通れないだろう。
 墓地の無縁化や維持不能などがみっつめの危険であり、中長期的に見て信仰承継の基盤そのものを崩壊させるほど大きな課題でもあろう。

▽ おわりに

 これらの予測しうる危険に対してただ指をくわえて見ているしかないのだろうか。さまざまに思い巡らしてみても、少なくとも対症療法では健全化を図れないほど事態は深刻である。日本における教会形成そのものに関わる抜本的なリストラクチャリングを論じなければならない時期に来ているのではないだろうか。
 エキュメニカル運動とまでは言わなくとも、日本では全体からすると割合の少ないキリスト教であるから、キリスト教界全体が一致協力してこの難局を乗り越えていかなければならないのではないだろうか。

 もちろん、これらの予測が杞憂に終わる可能性もなくはない。経済が健全化しもう一度バブル期が到来するかもしれない。そうすればもう一度ベビーブームが起こるかもしれない。さらにもう一度キリスト教ブームが起こるかもしれない。
 杞憂ならいい。杞憂なら、いいんだ。


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