葬送とアイデンティティ


▽ はじめに

 中村雄二郎という哲学者が書いた新書「術語集-気になることば-」(岩波新書,1984)に非常に興味深い記述を見つけた。この本は著者が既存の言葉(キー・ワード)が持つ概念を問いなおし、明晰に捉えなおそうと試みる「私家版辞典」である。

▽ アイデンティティとは何か

 五十音順に並んだ40語の筆頭にあるのは『アイデンティティ』。確かに使いはするけどわかったようなわからないような言葉である。著者は

……もしも一通りの訳語で済まそうとすれば、自己同一性という訳になるだろうが、ただこう訳しただけではわけのわからないことが多い。むしろ、歴史的連続性とか、人格的同一性とか、場合によって訳し分けたほうがいいだろう。(太字部は原文では傍点)

とし、この言葉を広めるきっかけとなったE・H・エリクソン(発達心理学者)と彼が参考にしたW・ジェームズ(哲学者・心理学者)およびS・フロイト(精神分析学者)の考えに言及し、次のように説明する。

……自分が自分であることの充実感(あるいは根拠)、および文化的共同体への帰属の感覚を示すもの……

 さらに中村は思索を伸ばし「アイデンティティ・カード(身分証明書)」に触れ、

 ふつう私たち日本人は、日本の中で生活しているとき、身分証明、身元証明ということを、それほど切実には考えないで済む。……サラ金(サラリーマン・ローン)に金を借りに行ったりするときぐらいであろう。サラ金の話などをしたのは、国電の社内のサラ金の広告に、《あなたがあなたであることを証明するものを持参して下さい》という言葉があって……

と言う。ヨカッタ、何を見聞きしても自分の仕事や趣味の分野に結び付けて考えてしまうのは私だけではないらしい。それはともかく、

……思うにそれは、日本の社会が身分や身元をなにかの証明書によって……証明しないでも、いろいろな社会関係の網の目がそれをおのずと示してくれる共同性のつよい社会だからであろう。それだけにパスポートをもって国外を旅行したり外地に滞在したりするとき、《自分が自分であることの証明》が……国家によってしかなされないことに奇異な感じを受ける。……《自分が自分であること》は自分が一番よく知っているにしても、他人に対してはそれを自分では証明できない。そういうパラドックスがある。

と述べている。

▽ 高齢者所在不明問題

 後の日のために補足しておくが、現在2010年8月。巷では「100歳を超える高齢者の所在不明」問題が大きく取り沙汰されている時である。26年前、中村がこの本を書いたときには今日のこの状況をはたして想像しただろうか。引用文が突き刺さるかのようである。

 さて「所在不明問題」は戸籍管理制度の構造的弱点(欠陥とまでは言えず、現実的な限界)であるから致し方ない。わかっていた話であるから、業界人は(少なくとも私の周囲は)誰も驚かなかった。しかし社会が注目する「生存高齢者の所在確認」ではなく「身元不明死者の個人特定」については改めて考えされられることとなった。
 中村の述べるように生者ですら「自分が自分であること」を証明するのは困難であるのに、物言わぬ死者はなおさらである。さらに近年の社会構造変化はコミュニティの必要性を失わせ、他者と関わらずに生きる(生命を維持する、という意味だが)ことがことのほか簡単になっている。それまでは所在が不明になれば「どこかで死んでいてもおかしくない」と言われたことが「どこかで生きていてもおかしくない」に変わっているのである。

 この所在不明問題を別の見方で表現するなら、社会は個人を見つけらなくなっている、個人は社会に認識されなくなっている、と言える。すなわち中村の言う「自分が自分であることの根拠」も「文化共同体への帰属」も消失し、アイデンティティと呼ばれうるものが見あたらなくなっているのではないか。
 たとえ「奇異な感じ」が拭えないとしても、周辺社会が「彼が彼である」ことを証明できないのであれば、その証明は国家に委ねられることになる。しかしその国家ですら「彼が彼であると認識できたもの」について証明できるにすぎない。

▽ 葬送とアイデンティティ

 日本の葬送文化が揺らいでいると盛んに言われているが、これも日本人の日本人としてのアイデンティティの欠落と密接に関連しているのだろう。「自分は日本人である」という帰属意識がアイデンティティを強化するのであれば、逆に「日本人の文化はこのようなものである」という感性は個人を日本人として補完するからである。

 極端に言えば、身元不明死者は「日本人ではない」。日本で死んだ「誰か」でしかない。そこにアイデンティティが存在しないからである。
 そして逆も言える。「誰か」が死んだだけでは「誰も遺族にならない」。たとえ血族が、家族(と呼ばれるべき者)が存在したとしても、である。

 中村はこの項の最後にこう述べている。

 《自分が自分であること》を自分では証明できないことは、また、自分の存在を自分で根拠づけうるかという問題にも通じる。そしてその問題を考える上で見逃すことができないのは、R・D・レイン(『自己と他者』1961,69年)などがいう相補的アイデンティティの考え方である。すなわちレインは述べている。《女性は、子供がなくては母親になれない。彼女は、自分に母親としてのアイデンティティを与えるためには、子供を必要とする。男性は、自分が夫になるためには、妻を必要とする。愛人のいない恋人は、自称恋人にすぎない。見方によって、悲劇でもあり喜劇でもある。〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。》この考え方によって、アイデンティティの問題は役割の問題にも結びつくのである。

 この意味において、死者は「葬られるという役割」においてしか「人格を持った死者」たりえない。葬送者は「死者を葬るという役割」においてしか葬送者たりえない。逆に言えば死者と葬送者のアイデンティティが存在し得ないならそれは同時に「葬送はありえない」のである。
 アイデンティティが「失なわれた」とき、死者は葬られることはなくなり人々は「死体を処理する」ようになる。そしてアイデンティティが共同体への帰属意識と密接に関係しているのであれば、社会共同体と個人の乖離はそのまま葬送の崩壊に結びついていくのである。

 レインの言葉は示唆に富んでいる。「女性は母親たるために子供を必要とする」が「子供がいる女性がすべからく母親たろうとする」とは断じていない。
 人が死ねば必ず葬られるというのもまた、幻想である。しかしそれは、理想でなくてはならない。我々が我々であると言えるために。社会が平和であると言えるために。

▽ お詫び

 自分でも途中から何を書いているのかわからなくなりました。ゴメンナサイ。
 また自分の中で長い時間を掛けて消化していかなければなりません。


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