ぽっくりズム


▽ 医師語る

 先日とある研究会の公開講座に出席したのだが、その日の講師であった癌治療を専門とする医師が聴講生にこう訊ねた。

 「自分も必ず死ぬと日頃考えることがありますか?」
 「ぽっくり死にたいと思いますか?」

 周囲の意見に左右されないように目を瞑って挙手を、と指示されたので確認はできなかったが、講師が言うには一問目はほぼ全員が手を挙げ(葬儀関係の講座であるから、聴講希望者はもちろんそういう意識を持っている人が多い)、二問目もかなりの人が手を挙げたようである。
 私も両方に手を挙げた。ご存じのように私は葬儀業が生業でもあるし、趣味でこんなサイトを作っているほどのいわゆる「葬儀オタク」である。一問目について私がNOと言っても周りが認めないだろう。そして二問目についてもごく当たり前のようにそう思っていた。
 しかし驚いたことに、その会場の反応を見て講師は「今の二問の両方に手を挙げることは矛盾しているのではないか。ぽっくり死にたいという人の多くは自分の死を本当に深く考えたことがないのではないか」と言った。

 その回の講座は「生きるために死をしる」とタイトルを打ってあった。
 講師は前言の解説は最後に回すと言って、ある手術法による癌手術のビデオ(実物)を聴講生に見せた。この手術法は従来よりも手術瘡が小さいなど多くの利点があり、QOL(*1)にも配慮されているとのことであった。
 ビデオの前後には癌発見から軽度の治療、再発、手術、再発、余命告知といった患者や家族が希望と絶望を行ったり来たりするシミュレーションが添えられていた。また、フロイトを引用し患者が自身の死を受容するまでの心理プロセスと、遺された者が家族の死を受容するまでの「喪」の期間についても言及された。
*1 クオリティ・オブ・ライフの略。直訳すれば「生の質」であり、多くの場合癌患者などが余命を闘病生活だけでなく精神的にどう豊かに過ごすのかということを論じる際に用いられる語。「QOLが高い(低い)」といったように用いられる。

 正直私は講義の最後までこの講師が何を言わんとしているのかがわからなかったし、前言についてもわだかまりが残ったままであった。
 頭の中で線が繋がったのは、講義の終わった後の質疑応答の時である。応答の中で講師は「これまで多くの癌患者に治療の方法を説明してきたが、説明を受けてなお治療を拒否する人はほとんどいなかった。だから簡単にぽっくり死にたいとは言わないでほしい」と言った。

 なるほど、この講師と私とでは初めから「ぽっくり」の定義がまったく違っていたのである。

▽ ぽっくりとは何か

 「ぽっくり信仰」という言葉がある。「民俗小辞典 死と葬送」(吉川弘文館)によれば「苦しむことなく、突然しかも安楽に死ねるように願う神仏祈願。(抜粋)」とのことである。
 また「ぴんぴんころり」という言葉もある。文字通り、死の直前までぴんぴんしていて、突然ころっと死ぬことである。

 私はこれが「ぽっくり」の一般的な解釈であると思っている。つまりぽっくりの反対は「あからさまな病を経て死ぬ」であって、自分が闘病の苦しみを味わうことや家族が看病の苦労を負うことのないように願うのがぽっくり願望である。
 それが信仰というものにまで昇華するかどうかはともかくとしても、「ぽっくりはありがたい」「ぽっくりさまさまだ」という感覚がぽっくり信仰という言葉を生み出したことは理解できる。

 しかしこの講師が考える「ぽっくり」はこれとは違う。「病気になっても治療に希望をつながずに死を迎えること」なのであろう。

 あなたは自分が必ず死ぬと考えているというが、それは本当にリアルな死か。
 人は病んで死んでいく。病むなら治療もする。死に向かうというのはそういうことだ。
 だからこそ、人は簡単に死ぬことを考えるべきでない。生きることを考えるべきだ。

 おそらく、講師はこういったことを言いたかったのであろう。肯定的に捉えるなら彼はまさしく「医師らしい医師」であるし、その主張にも特に違和感は感じない。が…
 いやいや待ってください先生。癌になって治療法を考えたり余命を心配している時点でそれはもうワタクシ的には「ぽっくり」じゃあないんですよ。と思わずツッコミを入れそうになったが、場の雰囲気をぶち壊すのも気が引けるのでおとなしくしていた。

▽ ぽっくりズム

 この講師は「喪」について言及する際に「喪の期間は平均3ヶ月程度と言われているが、宗教や哲学が喪の期間を縮めることはある」と言った。その通りであろう。つまり信仰や思想によって日常的に死を考えることで、実際の時に死の受容に至るまでのプロセスが速く進むということである。
 だとすると、思うに「ぽっくり信仰」は高速で死の受容に至る強烈な思想ではないか。

 一般的に人は高齢になったり自分の体調が悪くなってきて初めて死を考え始める。むしろ健康な若年時から毎日死のことを考えるなど不健全極まりない。そして死に向かう不安は体調の悪化とともに増大していくのである。
 しかし「ぽっくりスト」はある時点から「いつ死んでもその時はその時」と考え出す。彼らの理想は、高齢になってもぎりぎりまで労働や日々の生活を自分で行うことができ、ある日突然「その時が来る」ことである。

 例えば「今日の帰り道に事故にあって死ぬかもしれない」と毎日考えることは、私に言わせればぽっくりズムではない。それはただの悲観主義である。ぽっくりストはそう考えない代わりに「今日も元気だが明日まで生きているかどうかはわからない」と考えるのではないか。
 そして「それはそれで良し、明日も生きていればそれもまた良し」とするのである。

 ぽっくり信仰のある地域ではぽっくり死んだ人がいると「ぽっくり死ねて良かったね」と言う。悲しみが無いわけではないが、自分たちの中で理想の「死にかた」を共有しているのである。
 理想の死にかたは逆に言えば理想の生きかたでもある。死は生の最後に来るからだ。だからぽっくりストのQOLはぽっくり死ぬことで最も高まるのである。

 日常的な死の受容とそれに伴う生の充実、それがぽっくりズムの真骨頂である。おや?講師の主張と何が違うのだろうか。彼は職業上毎日病人の相手をしている内に「病まずに死ぬ」という理想を抱けなくなってしまったのではなかろうか。

▽ ぽっくり死にたいですか

 さて、こうしてぽっくりを再考した上でこの講師の質問を改めて受けたい。

 「自分も必ず死ぬと日頃考えることがありますか?」
 「ぽっくり死にたいと思いますか?」

 私はやはり元気よく手を挙げるだろう。贅沢な望みを抱くぽっくりストとして。
 皆さんはどうだろうか。
 そして、彼自身はどうだろうか。


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