散骨の法律的課題


▽ はじめに

 近年、遺骨を墓に納めず海や山に撒く「散骨(*1)」への注目が高まっている。
 「自分の遺骨は海に撒いてほしい」と言い遺す人、亡くなった家族の好きだった山に撒きたいと願う人など、それぞれの視点から散骨を希望する人がいる。もちろん、新しいビジネスチャンスとしてスタイルを模索する事業者や、墓を持つ経済的余裕がないからといった人々もいる。
 しかしそのような中、日本の法律が現実に追いついていないことは、一般の方にはあまり知られていない。今回は、この点について現状の解説をするとともに、今後の展望を思索してみたいと思う。
*1 「散骨」は「撒骨」と書かれることもある。読みは同じ「さんこつ」。

▽ 誤解の多い一般情報

 現在、メディア上に流れる散骨に関する一般向けの情報では、「散骨は合法です」と言われることが多い。しかし、これは厳密には誤りである。
 日本における葬送に関する法律の中核になるのは「墓地、埋葬等に関する法律(*2)」であるが、この中には散骨についての定めはまったくなく、規定されているのは一次葬として「埋葬(土葬)」「火葬」、二次葬として「埋蔵(埋骨)」「収蔵(納骨)」のみである。理由は、この法律が作られた昭和23年当時、散骨という葬法が社会的に認知されていなかったから、とされている。
 歴史的に見れば散骨という行為自体はけして近年になって初めて発生したものではないが、散骨は基本的に火葬を前提に持つ二次葬であるから、火葬の普及していない過去にあったその多くは死体そのものの放置であって、焼骨の散骨はごく局所的であったとは言えるだろう。さらにこの法律の制定当時は、直前に民法改正で「家制度」が廃止されていたとはいえ、いまだ「家」を重んじる意識が民衆の中にも根強く残っていた時期であるから、死者を家墓に葬り菩提を弔うことは当然という感覚があったことは想像に難くない。そのような背景から、立法に際して散骨は「想定されなかった」のである。
 そのため、「散骨は合法でも違法でもなく、ルールとして確立していない」が、現時点における正しい認識である。
*2 昭和23年施行、現在は厚生労働省の管轄。

▽ 「合法」主張の根拠

 ではなぜそれをして散骨が「合法」と声高に言われているかというと、1991年に法務省が出した見解に起因している。
 この年、「NPO法人 葬送の自由をすすめる会」が発足し、会が「自然葬」と呼ぶ一回目の散骨が行われたのだが、その際に散骨は刑法第190条に定めのある「遺骨遺棄」や、墓埋法第4条「墓地以外への遺骨埋蔵禁止」違反に当たるかどうかが問題となった。当時の法務省刑事局はこれを受け、「葬送を目的とし節度を持って行う限り、死体遺棄には当たらない」という意味の見解を述べ、また当時の厚生省も「墓埋法は散骨を規制するものではない」という意味の見解を述べた、と言われている。
 なぜ、「〜という意味の」と言わなければならないかというと、この見解は文書では公開・保存されていないからである。そのため、それぞれのホームページなどで文言がばらばらであり、確定的に申し上げることができないのである。
 散骨に賛成・推進する諸勢力(思想団体や、散骨を売り物にしている企業など)の主張では、これらの見解は「公式」のものであったとされている。これらの見解は散骨を法的に否定しなかったのであるから、散骨を推進する者としては根拠にするのは当然である。

▽ 見解の意味

 しかし、どうやら法務省・厚生省はこれらの見解を公式とは見ていないようである。
 旧厚生省から業務を引き継いだ厚生労働省に問い合わせてみると、「公式とまでは言えない」のだという。なぜなら、公式であれば当然文書で残すだろうし、そもそも三権分立の原則から「行政は司法に踏み込めない」のだから、これは散骨の合法性を認めた「司法判断」ではない、と言うのである。
 つまり、これらの見解は「散骨してもいいですよ」と端的に答えたものではなく、「どうしてもダメか、って聞かれたら、状況を想定してはっきりダメと書いてある条文がないから、司法判断がされるまでは行政としては取り締まるのもどうかと思う」という程度のものなのである。

 「合法」と言えるのは、法律に「これこれこうしなさい」と書いてあることに沿って行うことであって、書いていないことを自由にするのは「違法じゃない」というレベルを超えない。だから、「合法でも違法でもない」のである。

▽ 行政の姿勢

 そのような状態を10年近く放置した後、やっと厚生省は「これからの墓地等の在り方を考える懇談会(*3)」を立ち上げ、議論した。しかし、この懇談会の中では散骨についてもそれなりの時間を取って議論が行われたにもかかわらず、まとめられた報告書(*4)の中ではごくわずかしか触れられず、「散骨も選択肢のひとつだし、どう葬りたいかは尊重されるべきだろうけど、法律も整備していかないといけないね」という内容だけにとどまっている。
 また、懇談会の議事要旨を見ても、厚生省は散骨という「思想」に対しては否定的でなくとも、現行法の中で自由に散骨することについては非常に慎重な発言を繰り返しているし、「法務省や厚生省が散骨の合法性を公式に確認している訳ではない」という委員からの発言も見られる。つまり、行政は現状(少なくとも当時)の散骨に対してあまり好意的ではないと言えるだろう。
 そして、それから現在に至るまで、十余年を数えても新しい議論の場は設けられていない。
*3 1997年2月10日〜1998年6月4日 全12回
*4 「これからの墓地等の在り方を考える懇談会報告書」1998年10月 厚生省生活衛生局(この報告書は文書として閲覧できる)

▽ 思索

 さて、このような現状から散骨に関しては何が問題なのか。「問題は国の姿勢だ。」と言われてしまえばそれまでだが、まあ彼らとて習俗のばらばらなこの日本の地域・国民を取りまとめていくには苦労もそれぞれにあろうから、すでに言われている以上には責めても仕方がない。
 逆に、散骨をしたいという希望を持つ人たちの感情も責められるべき対象ではない。それを率先してビジネスにしている人々を見ると個人的には腹立たしく思えなくもないが、それとて需要の上に成り立っているわけであるから、それも悪とまでは言い過ぎであろう。

 そうであれば、当然問題にすべきは「法律が今後どうあるべきか」である。
 墓埋法の「目的」は、「墓地・納骨堂・火葬場の管理や埋葬など」が、「宗教感情・公衆衛生・公共の福祉」の観点から支障なく行われること、であると墓埋法第1条に規定されている。
 賛成者の多くは、ここで言う「宗教感情」を「葬送の(選択の)自由」に置き換え、衛生上は「焼骨が環境に害することはないから大丈夫」と主張する。
 これに対し慎重論者は、「環境に害するかという科学的影響ではなく、撒かれる側の権利(撒かれたくないという権利)を侵害しないかどうかだ」という主張を軸にすることがほとんどである。

 宗教感情という表現を使ったのも時代背景によるものではあろうが、現代において葬送に宗教は不可欠であるというコンセンサスは崩れつつあり、混乱の原因になっていることは否めない。これを国民感情と言い換えたところで、思想が多様化すればするほどそれを一律に考えることはできなくなり、「どう定めてもどこからか文句が出る」というジレンマに国が苛まれていることも理解できなくはない。
 公衆衛生というのも何を指しているのかについては頭をひねらせられる。ここで言う公衆衛生というのは、具体的科学的に死体や焼骨によって土壌や水質が汚染されることを想定しているというよりも、「死体などをむやみに拡散させずに一所に集めましょう」という主旨であるという方が理解しやすい。すると、そもそも遺骨がきれいか汚いかではなくて、その辺に勝手に撒くなよ、ということにもなる。
 公共の福祉という観点で見れば、近年さまざまな理由で「墓離れ」が進んでいるわけであるから、「墓は持たない(持てない・持ちたくない)」から、遺骨をどうするか国は責任持てよ、という要求が出てくることも自然といえば自然だ。

▽ 提案

 こういった事情から言うと、「散骨はこうやってしなさい」というルールを作ることは至難であるし、反発も強いだろう。それならば、最低限「ここにはしてはいけない」というルールを整備しておくのはどうか。
 例えば、「水上にあっては水源、取水川、湖、漁場、海水浴場など、陸上にあっては公有地、所有者の許可を受けていない私有地、またそれらに準ずる場所には散骨をしてはならない。」といったような具合である。前述の議事要旨の中でも、「フランスでは公道以外ならどこでも撒いてよいというルールがある。」という発言もあるし、方向性としてはこちらの方が良さそうだ。
 これに加えて、「陸上に撒いた場合は○年間それを証明しなければならない。」などのルールを付加して、土地売買に際してのトラブルなどにも先手を打っておくとなお良いだろう。

 散骨事業者の関与については一考の余地があるが、墓地経営を「地方自治体あるいは宗教法人・公益法人に限る」とした規則の大元の理由は墓地の公益性・永続性にある。そのことから言っても、その二者が前提にない散骨については、そのほかの他者の権利を侵害しない限りは特に規制するに当たらないかもしれない。
 そのほかにも、犯罪としての遺骨遺棄を助長するのではないかという懸念も持たれているが、それはやはり葬送法の問題ではなく刑法と国民モラルの問題であろう。

▽ 余談

 少し本筋から離れるが、『新版 逐条解説 墓地、埋葬に関する法律』(第一法規 2007)に、地方自治体と国の担当者の間で交わされた質疑応答の中で、散骨に関連して少し考えさせられるものがある。昭和32年のものだが、「数十年前に死体を埋葬して、その死体や骨が既に消滅したものと考えられるような墳墓の場合、別の場所に墳墓の中の土を持って行ったらそれは改葬に当たるか」という現場からの質問に対し、「死体や骨が既に存在しなければ、それは法律上の改葬には当たらない」と回答されたものである。
 ここでは、死体や遺骨が法律上の規制を受けるかどうかという基準について、「存在するかしないか」であるとしているが、過去にそこに埋葬されたことが明白な場合という前提において回答しているわけであるから、これは死体や遺骨が「認識できるかどうか」であると考えてよいだろう。ならば、焼骨を「認識できない状態に加工」すれば、それは刑法はともかく墓埋法の適用を根本的に受けないのだろうか。

 例えば、近年発生した手元供養の商業バリエーションである、遺骨を加工した人造ダイヤモンドやセラミックプレートなどについて、将来的にそれらの処分を行う場合、遺骨として直ちに墓埋法の適用を受けるとは考えにくい。それならば、「遺骨が遺骨でなくなる基準」が何かということについては一考すべきである。
 表現文化社の碑文谷創師はホームページや著書で、「散骨について法的な是非は確定していないが、もしするなら原形を残さないように粉砕することも必要であろう」と、海外の散骨に関する法律などを参考に注意している。これも、粉砕することによってそれを「遺骨と判断できない状態」にぎりぎりまで近づけることが重要だ、ということである。
 ではこれを超えて、極端な例えとしては、「遺骨を粉砕した骨粉を魚の餌に混ぜて団子にし、川や海に投げ入れた」とすれば、この団子は法律上遺骨として扱うべきかどうか。まるで親鸞聖人の「閉眼せし後は鴨川の魚に…」であるが。
 ほかにも、前述の質疑に倣って、「遺骨を一旦法律上の認可を受けた墳墓に入れ、粉砕して墳墓の土と混ぜ、取り出して山に撒いた場合」には、この回答から言えばそれは法律上遺骨として扱われることはないのだろうか。

 我々は日頃意識しないが、これまでに過ぎてきた永い永い時の中で、この地表にはさまざまな生命の死骸が積み重なっている。当然、認識されないものは無いのと同じであるし、かつて骨だったものを土と分離することも至難である。だから、この質疑応答に見る判断は至極妥当なものであるが、それから60年、この葬送観の多様化した時代において法律をどう理解すべきか、悩みは深い。

▽ おわりに

 この稿をご覧頂いて、「結局、筆者は散骨に賛成なのか反対なのか?」と疑問を持たれた方も多いかもしれない。正直私は「どっちでもいい」のである。多くの人が遺骨を大切にする気持ちは理解できても、私自身は遺骨「だけ」が、ほかのもの──霊や人格(思い出)など──に増して大切だとは考えていないからであろう。
 ただ、葬儀業界が誤った情報を元に商売をしたり、消費者に奨めたりすることは当然是正していかなければならないと思っている。私がお客様から散骨について訊ねられたら必ず、「法的にはグレーゾーンですから、個人的にはお薦めできません。」と答えている。



※以下は2012年2月23日のブログ記事を転載したものです。

 先日、友人の僧職と世間話をしていた折、ちょっと大事な話が出たので記録しておきます。墓埋法に関する質疑応答です。

僧職「知人でペット供養を職業にしている者がいる。彼が遺骨(人間)の加工に関して次のような見解を述べていた。”セラミック化するなど再処理・加工された遺骨は墓埋法の規制の対象外である。従って、加工後の使用・設置・販売・譲渡・廃棄に至るまで、何ら法の制限を受けるものではない”。彼はこの点から某かのビジネスに結びつけたいようであるが、この法解釈をどのように思うか」

私「現時点においては身勝手な解釈だと私は思います。確かに墓埋法は遺骨の再加工及び加工品の取り扱いについて定めてはいませんし、私も『散骨の法的課題』の中などで”認識できない状態に加工された遺骨は法的制限を受けないのだろうか?”と問題提起をしたこともあります。しかし、これは墓埋法の各条について時代に即しさらに的確に明文化するべきだという問題提起であって、実は墓埋法全体を見ればこの問題にはごく妥当な解が存在していることは明らかです。

 というのも、墓埋法に限らずあらゆる法律は、それを扱う際にその各条の文言をただ読んで物事の可否を判断するべきようなものではなく、その法律全体の制定目的を大前提とし、その趣旨に沿った解釈を行わなければならないからです。墓埋法で言えば第一条にある『…国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われること…』という目的を無視して、以下の各条を解釈してはいけないのです。

 例えば、遺骨をセラミック加工したオブジェを作ったとしましょう。現在の日本において、その加工を経たオブジェを手に取って、”これは単に加工物であって、元が人骨であったことに特段の意味を感じることはない”とどれほどの人が言うでしょうか。これが現在の日本において大多数であればそのペット供養屋氏の解釈も誤りとは言えませんが、現にそう言える段階ではないでしょう。このことから、単に墓埋法が遺骨の加工物についてなんらの規制を設けていないからといって、加工物を直ちに祭祀の対象物ではないと見なし無秩序に扱うことは、まだ現在の日本においては妥当だとは言えません。

 散骨の解釈についても同様の問題があります。現在は単に刑法における遺骨遺棄に該当するかという観点からのみ評価され、墓埋法には明文化されていないから抵触しないという解釈が主流となっています。しかし墓埋法の趣旨を尊重して解釈するならば、例えば現状のように撒かれる側の国民がそれを妥当であると間違いなく理解できるような制度化が伴わない状況の中で、単に撒く者が刑事罰に問われないからといってそれを強行することは、墓埋法の、ひいては社会における法律そのものの意義目的を軽視した解釈であると言うこともできるでしょう。

 こういったことから、私は現段階における散骨についても積極的に支持していません(お客様が希望するなら問題点を説明した上で自分の責任で判断してもらっています)し、ましてやそのペット供養屋氏は自己のビジネスにおける利益を目的としてそのような解釈をしているのであれば、なおのこと肯定できるものではありません。私はこう思いますが、いかがでしょう?」


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