慣習の不承継


▽ 承継されない葬儀慣習

 葬儀慣習の承継が成されていない、ということが今、宗教界(特に仏教界)や葬儀業界で大きな問題として捉えられている。
 日本におけるキリスト教葬儀には、もともと慣習と呼べるほど定まったものがないためあまりピンとこないかもしれないが、数百年来歴史的な背景の中で葬儀と密接に関わってきた仏教界では危機的な課題だと言われている。

 なぜ葬儀慣習は承継されなくなったのか。慣習は承継されるべきなのか。多くの論者がさまざまに考察しているが、私も自分なりの理解をまとめてみたい。

▽ 地域共同体の弱体化

 まずもっともよく言われる理由は、地域共同体の弱体化である。古くは村の長老などが中心となって地域共同体で営まれていた葬儀が、近代化のさまざまな影響で事業者任せとなり、慣習を伝え共有する機会そのものが無くなっている、ということである。
 これはまったくその通りであろう。近代になって生活地域が流動的になったことで、地域共同体意識も実態も弱体化していくのはごく自然な流れである。(ここでは良いか悪いかという話はしない)

▽ 年齢差とひと昔の幅

 次によく言われる理由には、晩婚化などの影響で世代間の年齢差が広がっている、というものがある。確かに近年は特に景気の冷え込みなども背景に晩婚化・未婚化が進んでいるし、それ以前に多くの人が大学に進学するようになり社会進出年齢そのものが上がっているのだから、親子間の年齢差は広がっているだろう。このジェネレーションギャップによって慣習の承継が困難になっているというのだ。

 ただ、親子間の年齢差がいくら開くと言っても20年が30年になった程度である。それだけでこうも伝達が難しくなるだろうか。
 もう一面、「ひと昔の幅」そのものが縮小しているのではないか、と考えてみたい。たまに聞く話に、お年寄りに昔の話を聞くと「こないだまでは」と言っているのが100年や200年前だった、ということがある。私が子供の頃、「ひと昔」といえばそれは「10年」のことだった。(もちろん、子供だけに自覚はない。親や周囲の言である。)では現在の「ひと昔」とは何年であろうか。現代は情報流通が進み、2・3年前の事柄はすでに「昔の話」という感覚が特に若い世代にはある。

 図にしてみると次のような感じである。アバウトだが、上の図は子供の頃の話で「親子間20年、ひと昔10年」、下の図は現在「親子間30年、ひと昔3年」というイメージである。



 重要なのは、親子間が何年離れているかではなく、その間に「何昔あるのか」ではなかろうか。「ひと昔」は感覚的なもので、その幅は世相の移り変わりの速度に反比例する。そのため、親子差20年と30年は1.5倍しか離れていなくても、「ひと昔」で割れば前者はふた昔であるのに後者は十昔、まさに「とお(い)むかし」である。逆に「ひと昔10年」の感覚に直せば100年前の話であるから、若い世代は感覚的について行けないのではないか(*1)
*1 ついて行けないのはダジャレのほう、という批判は受け付けません。悪しからず。

▽ 雪崩式個別化とその賛否

 これらの理由から滑り出した慣習不承継は、葬儀業者の介入によって雪崩式に拡大していく。葬儀業者は慣習を「伝えない」だけではない。昭和40年代に「サービス業」を標榜するようになった葬儀業界は、当然のことながら「クライアントのために」葬儀を行うようになった。そのため、消費者は葬儀をより「自分たちのもの」と考えるようになり、また受容しがたい地域の既存慣習から「守られる」ようにもなった。このことが、既存慣習からの離脱を押し進め、葬儀が個別化する要因になったのではないかと考えられる。

 この「不承継と個別化」についてはもちろん賛否両論ある。戦後の日本は西洋思想の影響もあり、葬儀に限らず個人化が進んだのであるから、現代的価値観からいえば既存慣習に縛られず選択の自由が確保されているということは一般にも馴染みやすい。特に日本においては家族制度の変遷や男女格差問題などについての歴史的経緯から、これまで「抑圧されてきた」と感じる人々にとっては願ってもないことである。他方、これまでの積み重ねの中を生き、「良いものを伝え残してきた」と自負している人々にとっては受け入れがたい事象である。

▽ 問題はどこにあるのか

 さて、葬儀慣習の不承継と個別化は、ある意味時代を反映した「ただの客観的事実」である。しかし、現在この問題が論壇に登ると、必ずと言っていいほど「慣習擁護派 vs 慣習脱却派」という構図になり、解決のない泥沼論争になる。マスコミも「わかりやすい対立構造」を煽る。そしてさらにそれを受けて視聴者は頑なになり、個別の行為について論ぜず「慣習だから反対」といったような拒否反応を起こすことも珍しくないのである。

 葬儀慣習の中にも、冷静に考えて良いものも悪いものもある。迷信的で現代人には受け入れ難いものもあるし、社会システム上現実的な承継が困難なものもある。逆に、葬送共同体のグリーフケアに貢献したり、社会の円滑な運営のために有用なものもある。重要なのは、これらの見極めではないだろうか。

▽ おわりに

 慣習が承継できないのは社会構造の変化による必然である。そうであるなら、慣習を「そのまま」の形で受け継いでいこうというのは現実として無理な話である。
 しかし、個別の行為を見れば、現代においても有用なものはたくさんある。今後の課題は、それらをいかに「理解し選択できる」体制を整えるか、であろう。葬儀業界もこれまでは「慣習以外のものを選択できる」方向で選択肢を増やしてきたが、個別化の進んだ今となっては改めて「慣習的な個別行為も選択できる」という方向で、クライアントの選択の幅を増やしていく必要もあろう。

 「良いものを受け継いでいこう」と声高に唱えなくとも、本当に皆が良いと思うものなら勝手に受け継がれていくものである。重要なのは、「それ(個別行為)が本当に良い、いかに良いか」ということがきちんと伝えられるかどうか、ということである。
 また、流行は巡るものでもあるし、温故知新という言葉もある。若い世代も、古くからの慣習を頭から否定するのではなく、もう一度見つめ直しその中から良いものを拾い上げていくことも大切だろう。
 うまく良いものを見つけられたら、もしかしたら君が、「次の時代の先駆け」になるかもしれないよ(*2)
*2 そんなことばかり言うから年寄りくさいんだ、という批判は受け付けません。悪しからず。


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