ビューイング


▽ はじめに

 日本のプロテスタント葬儀によく見られるいわゆる「前夜式」が、日本独自の風習であってアメリカなどでは行われないということは、業界ではよく知られていることである。 ではアメリカではその時をどう過ごすのかというと、「ビューイング」と呼ばれる時を持つことが一般的であるようだが、今回はこの通夜とビューイングの比較から、これからの日本の葬儀前夜の過ごし方にはどのような選択肢があるのかを模索してみたい。

 もっとも、私はアメリカの葬儀を実際に経験したことはないので、その点に関しては聞きかじりであるということは先にお詫びしておきたい。

▽ 日本の通夜

 まず初めに、日本における現在の「前夜式」が行われるようになった経緯について少し考えておきたい。

 日本における葬儀の大部分を占める仏教葬では、葬儀前夜を「通夜」と称して営みを持つことはご承知の通りである。 通夜という言葉が示すように、旧来は「夜を通して」行われる営みの全体を指すものであった。
 具体的なしきたりは地域により様々であるが、内容の傾向は全国的にある程度似通った点がある。 例えば、死者の魂がもう一度肉体に戻ってほしいという想いから、食事の魅力で魂を戻そうと枕元にご飯を備える「枕飯」や、屋根の上に登って死者の名前を呼ぶ「魂呼ばい(たまよばい)」などの風習は各地で見受けられる。
 また、線香やロウソクを絶やしてはいけないともよく言われる。 線香は多くの宗教で見られる香を焚くという儀礼的な意味のほか、遺体の腐臭を目立たないようにするためという実際的な理由や、香りが死者の食事となるからという後付けされた意義まで幅広い。 ロウソクは、死者が死出の道を行くときに、暗い足下を照らすという意味を与えられており、これを絶やすと死者が迷ってしまいまっすぐ死の国に行けないと考えられていたのである。
 ほかにも悪霊から死者を守るために遺体の上に置かれる守り刀など、はっきりと通夜のしきたりではないが、家族が様々な方法で死者の魂を守り導こうとした想いは、同じように感じられる。

 しかし、近年においてこの通夜の形は、特に都市部においてはほとんど見ることがなくなった。
 多くの場合、葬儀前夜には「通夜の式」や「通夜の儀」などと呼ばれる、ほとんど葬儀の式と同じ内容の式典が持たれ、基本的にはその時間を持って通夜としているのである。
 この変化の大きな理由として、葬儀全体を通して旧来よりも幅広い参列者が訪れるようになったこと、またそれに伴って一般の参列者の利便性が求められたことがある。 つまり、勤め人などは日中は仕事があり、しかも遺族でなければ忌引きもないわけであるから、参列しやすい夜に式典を持とう、というわけである。
 参列者の増大と平行して、一般の住居が狭くなってきたことから、葬儀の場所が旧来の自宅から葬儀会館に大きくシフトしていることも理由のひとつであり、遺族が遺体の周りでゆっくりと過ごす空間が確保できていないという事情もある。
 また、近年の葬儀は短い時間の中で慌ただしく行われ、旧来のように「喪が明けて落ち着くまでゆっくりしましょう」という社会環境ではなくなっていることから遺族の負担は増大しており、夜を徹して火の番をするなどということは現実的でなくなってきているし、阪神間などでは震災以降特に安全面の理由から夜間の火の使用を制限する斎場が出てくるなど、旧来のしきたりをそのまま行える状況ではなくなってきている。
 葬儀の現場ではこの慣習のギャップを吸収するために、葬儀の前々夜に旧来の形に近い「仮通夜」と呼ばれる時間を持ったり、葬儀会館で通夜式終了後に柩を式場から遺族の宿泊室まで移動し、その周りで夜を過ごすことができるように工夫するなど、様々な対応が試みられているのが現状である。

 日本においてはキリスト教葬儀もこの影響を多分に受けており、現在プロテスタント葬儀では葬儀前夜に「前夜式」等の名称を与えられた式典を持つことが多いわけである。

▽ アメリカのビューイング

 翻って、アメリカのビューイングの概要を見てみたい。

 ビューイングとは、「訪れた人が故人と対面して地上でのお別れの時を過ごす」というものである。 このことから、「対面」→「故人の顔を見る」→「view(ビュー、見る)」で、ビューイング(viewing)と呼ばれているのである。
 参加者は別段特定の時間に集まるわけではなく、各々適当な時間に訪れ、故人の顔を見たり、遺族と話したり、柩に花を入れたりして過ごす。 式典などは無く、遺族と参加者が各々の考えや方法で故人とお別れの時を持つのである。 服装なども特に喪服などではなく、基本的に自由である。 また、参加者が持参したり送られた花を、メッセージカードを添えて飾ったりもする。

 日本ではキリスト教葬儀といえば、事情の許す限りは教会(堂)で行うことが通例であるが、アメリカでは葬儀社の「フューネラルホーム」、日本で言えば葬儀会館で行うことがほとんどだという。 ここでは葬式(宗教儀礼)も行うが、土葬の場合(アメリカでは多くが土葬である)墓地での儀礼がメインであると考えれば、フューネラルホームはビューイングのための会場として作られているとも思える。
 自宅で行うことももちろん可能であろうが、この点についてはやはり日本と同じで利便性の問題がある。 日本の現代の家屋事情ではまずスペースが問題であるが、アメリカは土地が広いのでそれをクリアしているとしても、日常生活の空間に非日常生活(葬儀)を持ってくるのは様々に苦労があるものである。

▽ 通夜とビューイングの相違

 さて、この通夜(旧来の)とビューイングにはその根本において決定的な相違がある。
 それは、ビューイングでは参加者が故人との告別の時を持つことを主旨としてることに対し、通夜ではこの故人との告別を前提としていないことである。

 現在、日本における「死の判定」は医師が行うのであり、ある時間を境目にそれ以前は「生」それ以降は「死」、とはっきりと区別されているのだが、旧来はこういった医学的また法律的な死の判定というのはなされていなかった。 つまりこの通夜の時点では故人は未だ確定した死を迎えておらず、遺族たちはこの通夜を通して、生者が死者へと変わりゆくことを時間とともに実感を持って受け止めていったのである。 興味深い話として、遺体の顔に白布をかけることは日本における一般的な風習であるが、これにも能舞台の黒子が顔を隠しているのと同じように「存在するけど存在していない」という意味があった、という説もある。
 こういったために、通夜の時点においては前述のように、生き返りを願う行い(枕飯など)と、死の国へ向かうための行い(灯明など)が混在しているのである。
 もちろん明治以降日本でも死の判定は医師が行うようになり、現在においてこういった意識はほとんど無くなっているとはいえ、通夜の慣習を論ずる上では未だ無視できないものである。

 これに対し、ビューイングはこうして見る限り、確定した死者との告別のための時である。
 もちろん、アメリカにおいていつから死の判定が医学的法律的に整備されたかはわからないので、もしかしたら古くには日本人同様の感覚があったのかもしれないが、少なくとも慣習として受け継がれてはおらず、それ以前の欧州の葬儀事情を文献などで見ても、こういった感覚を読み取れるのはずいぶんと古いものだけである。
※ この欧米人の感覚については専門家の方に補足していただければ非常に幸いである。

 なぜこのことを取り上げなければならないかというと、現在の日本人の通夜の時点での感覚はこのビューイングにおける米国人の感覚とほとんど同じであって、にもかかわらず慣習としては旧来のものを受け継いでいる、という点を認識しておかなければならないからである。
 すなわち、旧来の通夜と現在の通夜式は、ただ時代の事情によって変化した延長線上のものと捉えられがちではあるが、その根本的な部分で全く感覚の違うものなのである。

▽ 「現代通夜」の問題点

 こういった事情の中、近年特に宗教界や学識者からは現在の通夜のあり方に対して多くの問題が指摘されている。
 その代表的な問題点をまとめると、

  @通夜(式)が告別式(葬儀式)化し
  A通夜本来の意義が薄れ
  B遺族の負担が増し
  Cグリーフワークの機能が低下している

ということである。

 @の現状は前述の通りであるが、特に宗教界からは「葬儀を二度行っている」という批判が強く聞かれる。 これは葬儀式における礼典を葬儀の中核と位置付ける理解からの批判であって、世俗の利便性を理由に葬儀式を形骸化させてはいけないという意識が根本にある。
 しかし、近代においては一般会葬者の存在は当たり前と受け止められることがほとんどで、遺族の中には「せっかく時間を割いて来てもらってるのに何もせず帰っていただくのは心苦しい」という想いが少なからずある。 厳然と礼典の意義を追求するか、遺族の希望を尊重するか、宗教者の中でも葛藤が多く聞かれる問題である。

 Aもいくつかの点で前述した通りであるが、通夜の風習が持っていた本来の意義が薄れ、形骸化してきたという批判である。 これはどちらかというと学識者や高齢の方から多く聞かれるわけであるが、風習には古くから日本人が持っていた観念や想いがあるから、それらを文化として大事にしなければいけない、というのが主旨である。
 ただ、現在の若い世代においてこの主張をする人は稀であるのが実情で、そもそも風習の意義を知らなかったり、迷信的だと考える人が多く、世代間の継承がなされている意識とは言い難い。
 また、前述のように旧来の通夜は故人が生者から死者となったことを遺族が受け入れるための準備期間の役割も果たしていたのであり、その機能が失われることへの懸念も強く言われているのである。

 次にBであるが、式典が二倍に増えれば遺族の負担も様々な意味で倍増するだろうという意見である。 これには賛否両論あるのだが、賛成者が「旧来の通夜に加えて通夜式を持つのであれば」という前提を持つことが多いのに対し、反対者は「夜通し遺体の守りをするよりも短い時間に必要なことをすませてしまえば」という考えを持つことが多くあり、根本的に議論がかみ合わないことがままある。
 そもそも旧来のように自宅で通夜を営んでいた際には、夕刻頃から夜中にかけて弔問者が入れ替わり立ち替わり訪れたわけであるから、家人もそれなりに応対に手間を取られていただろうことも想像できるので、単純に今の通夜式の方が遺族の負担が大きいとは断定しにくいとは言える。 さらに、現在においては自宅で通夜を行うことがそもそも物理的に不可能であることもままあり、同じ土俵で論じることは難しいという実情もある。
 ただ、地域によっては通夜式の参列者に御礼品を差し上げることなどもあり、式場の借り賃などからも経済的負担という意味では確かに現在の方が負担が大きい傾向はある。
 また、式典を持つということは定められた時間を束縛されるということであるから、遺族の心的負担が大きいという見方もあることは見過ごせない。

 最後にCであるが、これは近年日本でも少しずつ広まってきたグリーフワーク、ケア、サポート研究の観点からの意見である。 現在の通夜は旧来に比べて、「遺族が故人と向き合う時間」が極端に少ないのではないか、という点が特に取り上げられることが多い。 理由としては@〜Bが包括的に挙げられることが多く、遺族は(特に批判的には葬儀業界によって)形だけ作られた式典に追われて、本来もっとも「悲しむべき」時間に悲しめていないのではないか、ということが強く言われるようになってきている。
 従って、現代通夜の問題点というのはすべてここに集約されると言っても過言ではないのだが、日本におけるグリーフ研究は米国や北米に比べ遅れていると専ら言われている上、現在の社会における景気低迷なども原因として、一般の方の興味やそれに伴うマスコミの報道もほとんどが葬儀の料金などのことに終始しており、重要性の割に注目度は低いのが現状である。

▽ 問題の解決に向けての思索

 では、これらの問題を包括的に解決するにはどうすればよいだろうか。
 このことについては、旧来の通夜の形に回帰するべきだと論じる人もいるが、これまで述べてきたように旧来と近年の日本における葬送の意識の変化は著しく、単純に形だけを戻しても本来の機能を発揮するには至らないであろうとは推測するに難くない。
 そうであれば、旧来の通夜のニーズと現在の通夜式のニーズをもう一段高いレベルで取り纏めるような方法を考えなければならないと思うのだが、そのひとつのモデルケースとしてこのビューイングを考えることは面白いのではないか。

 もちろん、冒頭に述べたビューイングのイメージは米国のそれであって、そのまま日本に受け入れられるとは考えにくいので、日本風にアレンジしまた意味付けをする必要はある。
 以下は、私が勝手に想像する日本版ビューイングのスタイルである。

 現在一般的にはほぼ混同されている「葬儀式」と「告別式」をもう一度切り分け、さらに礼典と告別の順序を入れ替える。
 葬儀式前夜に告別を配し、これを式典(告別式)ではなくビューイングスタイルで行う。つまり、一般参列者は葬儀式前夜に告別に訪れ、葬儀式は遺族近親者が(特に宗教的な)礼典を中心に行う。
 前夜、あらかじめ余裕のある時間を定め(例えば18時〜20時の2時間ぐらい)て会場は開放され、遺族・来訪者に自由に出入りできるようにしておく。会場には緩やかな葬儀に適したBGMや、故人の好んだ曲などを流しておく。
 来訪者は来る時間も帰る時間も設定の範囲内で自由である。定められたプログラムなどは設定せず、訪れた者から順次柩の周りで故人との対面や告別をしたり、遺族に慰めの言葉をかけたりする。
 この際、柩の近くには焼香具を備えておいたり、切り花などを用意しておいて遺族や来訪者が自由に柩に入れて飾れるようにしておく。来訪者が持参した生花を柩に入れてもよいだろう。
 遺族は会場にいてもよいし、疲れたり気分がすぐれなければ控室で休憩してもよい。控室には飲料や軽食などを用意しておいてもよいだろう。
 受付や会葬礼品などについては、ニーズに応じて会場の出入り口付近で行ってもよい。
 終了の時間が来れば一旦アナウンスし、三々五々散会する。遺族はニーズや事情に応じて、帰宅したり宿泊したりする。

 おおよそこういったイメージであるが、前述の問題点と照らし合わせて考えてみたい。

 @の問題の解決として最もシンプルなのは、葬儀式前夜に持たれる式典を廃することである。ただし、現在においては一般会葬者が故人と告別する機会を無くしてしまうことは受け入れられにくいのであるから、何らかの告別の場を設定することが重要である。それも、近年の事情を考慮すると夜間に持つことが妥当であろう。
 逆に、遺族近親者にとっては明日に控えた葬儀式への準備期間のような位置にあり、Aの問題についても緩和的であると考えられる。現在の緩和策として仮通夜を設定した理念のように、遺族に急激な変化を強要しないためのクッション的な機能を期待できる。
 Bについても、時間的・場所的・方法的束縛を緩めることによって遺族の心的負担を軽減する効果を期待する。
※ ただし注意しなければならないのは、定められた式典がある方が気が紛れて落ち着く遺族もいる、ということと、新しいスタイルの導入時期には周囲の視線に対するストレスが発生する危険性があるという点である。
 また逆に、ある程度の時間を定めることで遺族が来訪者に応対する時間に区切りをつけ、長い緊張を強いない効果も期待する。
 経済的な負担については、現在の現実的なラインとして会場が葬儀会館であることが多いだろうから、このスタイルの変更だけでは難しいが、方法が浸透してくれば葬儀社のサポート人員の削減などによる若干の効果を期待してもよいだろう。
 そして重要なCについても、ABの解決によって発生する時間的・心理的余裕から、遺族が故人と向き合う時間を確保できるのではないかと期待するのである。

 通夜と通夜式のそれぞれのニーズ・機能をできるだけ統合してみたが、いかがであろうか。

▽ 導入に際しての課題

 ただ、いくら合理的だと言ったところで、全く問題が見あたらないかというとそういうわけでもない。
 そのひとつとしてどうしても考えておかなければならないのが、キリスト教で言えば教会員(同じ教会に属するメンバー)がはたしてビューイングと葬儀式のどちらに参列するべきか、という点である。
 なぜこのことが問題になるかと言うと、『ビューイング(告別)←→葬儀式』という構図は、『社会儀礼←→宗教儀礼』という構図に容易に変換されて理解されるからである。
 例えば会社組織のメンバーであれば、そもそも故人・遺族との関係として属している分野は「社会」であるから、社会儀礼であるビューイングに参列することは自然である。それに対し、教会員はその社会的な関係のみならず信仰共同体の構成員としての関係もあるために、その性質を二者択一のように提示されたとき、自分の立ち位置に困るわけである。
 もちろん、ビューイングと葬儀式の参列者を厳密に区分する必要はないのであるが、現在の前夜式・葬儀告別式のように似通ったものではなくまったく性質の違う二者を対比させられると、そういう議論が起こるのは必定であると言えるだろう。

 正直、この問題については私自身の思うところはあるにせよ、神学的なバックボーンがあるわけでもなく理論としては全く成熟していない。当然、理論だけでなく実地でのリサーチも必要不可欠であるし、とりあえず今回は問題として提起するにとどめておいて、また改めて思索してみたいと思う。

▽ おわりに

 もともと形だけを見れば旧来の通夜とビューイングは近しいのであるから、近代的なエッセンスさえうまく取り入れれば日本でも馴染まないとは考えにくいのである。温故知新、と言ってみたいところだろうか。
 こういった見方をすれば、ビューイングも工夫すれば近未来の日本でも有用な選択肢のひとつとして成り立つように思える。 とはいっても、新しいものを導入するときには必ず試行錯誤が存在するのであって、前述のような課題もありなかなか一朝一夕というわけにはいかないのではあるが。

 今回は私見を述べるに留まったが、もし同様の考えを持つ宗教者や、賛同してくれるお客様がいればいずれ形にしてみたいものである。
 葬儀は時代によってその形を変える。受け継がれてきた理念を尊重しつつ、新しい時代の人々がより満足できるよう選択肢を考え提示し続けることも、葬儀社たる我々の大切な務めである。


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