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質問
ご遺体を穢れの対象とするのは仏教的な考え方に由来するのでしょうか?また、キリスト教では柩のなかに故人ゆかりの品々を入れたりする行為は行われるものなのでしょうか?
回答
仏教では「死」を穢れとは捉えません。

 「穢れ」という概念は様々なかたちで世界各地にみられます。しかし元来、仏教において人間の死を「穢れ」と捉える考え方はありません。死を「穢れ」と捉えるのは、主に神道の考え方といえるでしょう。分かりやすい例を挙げますと、たとえば仏教葬儀は寺院で行うことができますが、神道のお葬式を神社で行うことはまずありません。昨今ではセレモニーホールでのお葬式が一般化してきておりますが、キリスト教葬儀は今でも主に教会で行うことが多いかと思います。つまり一般的なキリスト教においてもまた、死を「穢れ」とは考えないということです。
 こと日本における「穢れ」の概念は、少なからず神道の影響が色濃く反映しているのではないかと思われます。日本では、穢れた物事を清めるために「塩をまく」という習慣があります。たとえばお葬式の場面においても(キリスト教葬儀では行われませんが)よく小さな紙袋に入った「清め塩」が配られたりします。しかし先に述べました通り、本来的に仏教は死を「穢れ」とは捉えないのです。特に浄土真宗の各宗派(一般的に「本願寺」と言われる宗派)では現在「清め塩」を使用することを控えるよう啓蒙しているほどです。つまり「清め塩」の習慣もまた、多分に神道的な考え方に起因するものと推察されるものと考えられます。おそらく多くの方々にとって、お葬式の後に塩をまくという意識の根源は、死そのものに対する穢れの意識というよりも、死者の霊(或いは悪霊)が我が身に憑依することを「祓う」という感覚なのではないでしょうか。対してわたしたちクリスチャンは、死者の魂はもれなく天国に上げられる(=召される)ことを固く信じます。したがって、そもそも塩をまいて清める必要性がないということになります。

 さて次に、キリスト教葬儀で柩のなかに故人ゆかりの品を入れる行為は行われるのかというご質問です。
 まず、キリスト教的な観点からいえば「その行為自体にさしたる意味はない」ということになるかもしれません。柩のなかに横たわる故人の亡骸には、すでにその魂が宿るものではないと考えるのですから。したがって、たとえば墓前に何かを供えるという行為にも、そこにキリスト教的な意味は無いものと考えられます。聖職者のなかには、そうした行為を強く否定される方もあるとお聞きします。しかし一方で「大切な人を送る側の人間にとって、その行為に意味はある」という考え方もできます。たとえば大切な人を失ったご家族が柩のなかに故人ゆかりの品々を入れる行為は、天国に旅立つご本人を想う気持ちの表れである、つまり『グリーフワーク』の一環と捉えることができるからです。その行為自体に何らの宗教的な意味は無くとも、理屈を超えた、人間のもつ根源的な「想い」がそうさせるということではないかということです。
 死者の魂はすでに天国にあります。しかし大切な人を失った私たちは、しばしば死者の魂と対話することを望みます。
「お爺ちゃん、天国はどんなところですか」
「お婆ちゃん、天国から私たちを見守っていて下さいね」
 その対話の術の一環として、或いはその想いの表出として、時として私たちは教義的に意味がないとされる行為を敢えてしたくなるものなのかもしれません。「キリスト教ではそのような行為は行われるのでしょうか」というご質問に対する葬儀屋さんとしての回答は「しばしばお見かけします。葬儀実務者である私たちは、殊更にそれらの行為を否定する立場にはありません」ということになるかと思います。
 但し火葬の関係上、柩に入れられるものには限りがあります。この点についてはそれぞれの火葬場の規定に従っていただくこととなります。
[ 回答者:岡田守生 ] 2017/03/07
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実務者・研究者への補足
 特にありません。